【発達障害】謙虚すぎる人間の落とし穴
発達障害の人、縮めて、"達人"ーー
(この呼び名の発案者は僕でなくシベリアさんです)
今の職場を見回すと、僕の他に3〜4人はこの達人がいます。
僕が採用されるような場所ですからガチャガチャした人は少なく、根暗コミュ障のマイペースか意味不明な人かです。
1人は部下をすり潰す常習犯のバリバリした役付でこの前も1人を病院送りにし、残りの2人は僕と同じのび太くん的なタイプで、多分学校で浮いてたし運動は苦手だったろうなというタイプです。
男女共に2〜3人いるので、発達障害は女性に少ないって話は一体何だったんだという気がしますね。
そのうちの1人が、これまた思春期はいじめられていたんだろうなと感じる、達人かはわからないけど精神が不安定そうな上司によく詰められていたのですが、
最近その上司がノータッチになってさらに上の位の人が指導にあたっているので「オッ、コンプライアンス発動だね」と思っています。
あの上司も別に悪気はなくて、ただそういう人生を送ってきたそういう人間で、その中で今の立場と役割を引き受けてしまったから、
人間の相互作用的にああいうただただやられっ放しにでいるような大人しさの相手にはああいう詰め方になっちゃうんだろうと思う。
悪いのはこの国の教育システムであることは疑いようがない。
とはいえ精神不安定そうな人が詰めてくるのはミラーニューロンがその過敏な神経をトレースすることもあって本当にストレスが多く、
隣のシマで仕事をしている身としても気分が良くないのでコンプラ発動してよかったなと思っています。
詰められていた方は多くの萌えオタに
「お前らが幻想抱いてるメガネっ娘の現実はこれだぞ! 義務教育を思い出せ!」
と突きつけてやりたい感じの人で、まったくこの国に大人なんて殆ど存在せず、ただ大きな子供がいるだけだなと思います。もちろん僕を含めてです。
その人と同じシマには他にもう1人相当の蓋然性をもって達人な女性がおり、彼女は常に何かに慌てていて、焦ったように喋ります。
僕が自分でよくわかっていないことや、苦手なタイプと話している時や、その会話メンバーの中で浮いていると感じている時や、言いにくいことを言わされる時に出る症状ですね。
口調は途切れ途切れで、全体としてはローペースなのに発語だけはやたらと早く、身体の前のめりな姿勢や寄る辺なさを表す動きと相まってあくせくした印象になる。
自覚があり気をつけようと思っても条件が整うとオートで発動し自分ではどうにもならない糞パッシブスキルです。
こういうのはもっと基礎スペックが高いやつに付けて欲しかったよ。
その焦ってる女性も、前述のローカーストメガネっ娘も、両方休んだ日に同じシマの人たちから苦言を呈されているのを聞いてしまい、まあ多分僕もこの前休んでいたので誰かしらに呈されているんだろうなという気がしています。
しかしその苦言の中に学びのシッポというか、気になるものがあったのでシェアします。
「気にはしてるけど、どうやって扱えばいいかわからない」
これは僕が大学時代にサークルの先輩に裏で言われていたらしいことと同じですし、
少し前に受けたコミュニケーションのセミナーでもチラッと触れられていたことです。
ここには改善のヒントがあるように思います。
扱われ方をある程度自分で定義するのです。
これはいじめられてそこから逆転できないような達人に限った話かもしれません。
ただ、我々は低い扱われ方をいつ頃からか周りの人間に押し付けられてきて、自分は劣った人間なんだ、世間的には制限付き人権のサブヒューマンなんだとの思いを抱えてきたが故に、自分で自分を定義することを考えてはいなかった。
考えてもそれは自分自身の中だけでの取り決めであり、それを世間に適用しようとすれば、我々を低く扱おうとする世の中と激しく衝突するしかなかった。
少なくとも僕はそうでしたが、おそらく似た人は居たはずです。
一部でも当てはまった方、おそらく変に真面目ですよね?
普段は、僕や職場の彼女らがそうであるように、やたらと謙虚になろうとします。
自分のような存在が他人の領域を侵すのはおこがましいと縮こまり、主張をしようとしない。
僕は自分の領分が侵されたと感じると一転猛反撃に出ますし、ネット上では自己主張が多いですが、普段はとにかく他人から引いて引いて引いています。
誰も僕の存在に引っかかって欲しくないのです。スムーズにいってほしいのです。僕は誰の邪魔もしたくないのです。
見ていると、隣のシマの彼女らもそういうタイプのように感じます。
自分のせいで他人に影響が出ることを恐れている感じがするのです。あくまで僕のフィルター認識ではありますが、ある種の達人にみられがちな傾向として、十分あり得ると思います。
だから我々は、これをやめないといけません。
少数の悪意を持った人間にカモとして目をつけられるだけではなく、これでは他の浮動票からも低い人間として扱われてしまう。
自分で自分をそう定義し、周囲にそれをアピールする動きをしているからです。
何がしたく何が嫌なのかも(悪意者のいない日常生活の範囲では)自分で見ようとせず、当然周囲もコミュニケーションの取り方がわからず匙を投げてしまう。
引くのをやめましょう。
僕もできないですが、なるべく主張しましょう。
主張で他人を殴るのではなく、ワガママを押し通すのでもなく、ただ少しくらいは主張しましょう。些細な要求をしてみましょう。
自分の存在を脅かさない、あるいは自分の精神を昂らせる興奮や幸福で包み込むことがない、日常生活で接する特段興味の湧かない無味乾燥にも思えるありとあらゆる透明な事象に対して、引かずに意識して関わりましょう。
自分なんかどうせ価値がない、と言って他人の領域を避けるのをやめましょう。
そりゃあ悪意者だったら存在を察知されれば嫌なことをされます。僕らは社会にはびこる悪意者の存在をよく知っています。
だから怖いし安パイとして人を避けます。他人に少しでも影響力を及ぼすのを毛嫌いします。自分の存在が生み出す領域が、他人のそれと接触することに強い不安と焦りを覚えます。
そこを意識して変えましょう。
その準備として、卑下する以外に、あるいは戦うための槍以外に、自分とは何かを定義しましょう。
そこまでできなくても、社会における自分はどうありたいかを、路傍の石以外で定義するのです。
実際に他人がその通り扱ってくれるとは限りませんし、僕もこうは言っても結局自分は価値のない劣った存在として他者(特に運動ができてモテてきた同性か価値の高い異性)から杜撰に扱われるのではないか、という思いがあります。
しかし今までやってこなかった以上、やらないことには絶対にできません。若くて顔がいい場合を除いて、それが周囲によって自然に育てられるのは稀です。
どうやら世の中は適度な自己主張を求めています。
我々の育った特殊な環境は我々に一切の主張を許さなかったかもしれません。
でも、多くの悪意のない人間は、いくらか人格的な摩擦があろうとも、他者がどういう存在で、どのように自分やその場のコミュニティと関わろうとしているのかを知りたがっています。
多分。
というより、それが普通に行われているからこそ、それをしない人間を目の当たりにすると困惑するんじゃないかと思います。
世の中の人間はほんのちょっと、適度に主張し適度に迷惑をかけてそれをお互いに許しあうことで社会を構成している。
自分がそこに存在することで生まれている領域が、(あくまで不快でない範囲で)他者の領域で歪まされることでその存在を社会の一員として認識している。
我々は人格形成の大事な時期に他人から存在を許されてこなかったし、"適度に"という表現が実に難解でその解釈で小一時間物思いに耽ることができる、そんな傾向にあることは身をもって知っています。
ですが、世の中でやっていくには、引いているだけではどうやらダメらしいということが見えてきました。
僕のように極端なルールを作っている人はいると思います。
それに触れた人間を悪意者として徹底的に討ち滅ぼしてやろうというような信念です。
僕はそれを手放す気は無いし他人にも決して勧めませんが(勧めた瞬間相手が話を聞かなくなることを知っているから)、
それ以外に何か、自分はこういう人間でこの場でこう振る舞うのでこう扱ってくださいというものを持ちましょう。
こう書くと学校で踏ん反り返っている高慢なDQNのようですが、要求はあくまで不快でなく他者が無関心圏として受け流してくれるようなもので、他人に特段の負担を求めず、もし求めなくてはならない場合は誠心誠意感謝する、そういうものです。
これならば普通の人間に迷惑として意識されることは少ないし、むしろこれをしないでいることの方が普通の人間を困らせるらしい、ということが今回の学びです。
自分はどのような人間で何ができ何を好きで、何を思って何故今ここに居るのか。
ここで何をして周囲の人間とどのように付き合いたいのか。
それを「えっ」「はあ……」「なんとなく」とかではなく答えられるようにして、そう振る舞うことを心がけよう。
僕のように仕事というものそのものに夢や興味を抱けない達人であれば、職場での答えに窮するだろう。
社会的要請がとか、仕方ないからとか、そういう答えになるだろうし、それが相手の気分を害すだろうと考えて黙ってしまう。
ローカースト眼鏡っ娘も多分そのタイプだから、何を聞かれても「はい」「はあ……」「そうですね」「多分」とかの答えしか出ないのだ。
周りはそれだともうその人が何なのかわからなくなってしまう。
だからできる範囲で無理やりにでも当たり障りのないルールを作り、それを主張してそのように振る舞うようにした方がよいのだろう。
自分が何なのかわかっていないと他人とうまくコミュニケーションなんかできないぞと言われたことがあるけれど、それは多分そういうことなんだ。