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映画 大きな家

昨日見てきました。断片的に印象に残っているところを、なぜそこが記憶に残っているのかと一緒に記していこうと思います。

最初に、この映画を作り、関わり、届けてくださったすべての皆さまにありがとうと感謝の気持ちを申し上げます。


始まってわりとすぐの幼稚園の制服(朝の用意の一式?)が、カゴに分けられて並べられていたシーン。子どもたちはそれぞれ自分のカゴから準備をはじめます。

(家というよりは、幼稚園みたい)と直感で感じました。たくさんの子どもが共同で生活するにあたり、朝の忙しい時間に一斉に子どもたちと
登園するには1番効率がいいのだろうとも思いました。

後に出てくる、もう少し年を重ねた子どもが言う「家ではない、施設。」というセリフにとてもリンクしたシーンです。

スクリーン上で私が"家にいるのに幼稚園みたいだな"と感じたくらいだから、そこで暮らす子どもたちが「ここは家ではない」と感じるのはそりゃそうかぁと思いました。

家ってなんなんだろうなぁ。

誰かから明確に教えられた記憶もないのに、血縁関係にこだわる日本人、日本という国。

誰から教えられたわけでもないだろうに、隣にいる他人を「ファミリーだから」と堂々と話すネパールの子ども。

たまたま生まれた場所がその国だった。という瞬間から、人生の価値観の土台が半分くらい決められてしまうような気がして、ほかの国を実際に目で見ないと その価値観に疑問を持つことってないんじゃないかと感じました。「家」の定義や価値観もそうなんじゃないかなって。

映画ではときおりさまざまな質問が子どもたちに投げかけられていましたが、ほとんどすべての質問の答えが、"児童養護施設に暮らす子どもだからこそ"の答えではなく、どこに住んでいるか、誰と住んでいるかなんて関係ない、"子ども"の答えだったように思います。

大人になればなるほど、みんなさまざまな過去を抱えた大人になる。大人として大人に出会うたびに「さまざまな過去を抱えてるだろうな」と思います。

しかし、「この人は何も抱えてない」「この人は何かを抱えてる」と、分けてしまうひとも世の中にいる。そんなふうにときどき分けてしまう人に出会うから、チクッとする。だけど、知らなかったり気づいてないだけなんだろうなと思います。責めてるわけじゃないです。

社会的養護を受ける子どもたちとそうでない子どもたちを分け隔てるものなんてあるのだろうか。

なにが楽しかった?というようなニュアンスの質問に「みんなと食べた食事の時間かな」という19才の青年の答え。

同じ質問を想像したとき、わたしも彼に似た答えが浮かびました。

食事が生きることに欠かせないこと、生きるためにただ食べりゃいいのではないこと、だれかと食卓を囲むことがどれだけ大切なことか痛感します。

誰もが誰かに頼んで産まれたわけじゃないです。
私も誰かに頼んで産まれてません。
「産んでくれ」と頼んだ人間はこの世に1人もいません。
なんで産まれてきたのかなんてわかりません。
とっても幸せそうに見える人でも、キラキラ輝いて見える人でも、なんで産まれてきたのかなんてわからない人が大半だと思います。

そこに執着せずに、ただ生きてることを大事にしたいです。生きていることは、事実だから。

産まれて生きてきた年数分、誰もがなにかを抱えている。計り知れない寂しさ、抱えきれない寂しさ、別のひとには埋められない寂しさがあることもわかる。

「その穴は埋められないけれど、でも隣にいるね。」

私が子どものころの私にもう一度出会えるなら、そう伝えます。


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「大きな家」
配信やパッケージ化は予定されてないそうなので、ぜひたくさんのひとに劇場で見ていただきたいです。


パンフレット

パンフレットがまたいいんですよ・・・

映画を見終わった後に目を通してさらに心があたたかくなる。読みごたえもあって、ひと文字ひと文字、言葉のひとつひとつを、その意味をしっかり受け取るように、ゆっくり目を通しました。

" やさしい " ってなんだろな
私にとっての "やさしい" が、他人にとってはちがったりずれてたりすることもたくさんあるけれど、でもこのパンフレットには "やさしい" がたくさんあります。

ぜひパンフレットも合わせてご覧になってください。

「14歳の栞」も見たいなぁ。大きな家キッカケで知りました。また劇場で上映してほしい〜!

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