正論に痛手を負う
久しぶりに「子育て講演」に参加した。
仕事で繋がりのある隣市の方にお誘いいただき、激推しだったので参加したのだ。
いい話だった。
私は帰り道、運転しながら吐きそうになり、心の整理のために綴る。
私自身、スマホ依存で、「しまった」というタイミングは体感していて、何なら昨日もあったな、と振り返る。講演後には「感情を共有するタイミングを逃した」と説明できる。
シンガポールの少年が書いたという作文『ぼくはスマートフォンになりたい』を聞けば、もう反省でしかなかった。
けど、依存している状態を否定したところで、根本療法にはならない。
子育ち親育ちというけれど、本当に共に育たなければならないし、そのために、親の自尊心を上げていく必要がある。
大人だってできないことだらけ。それでも頑張っている。
「愛着障害にさせないように」という前に、親が愛着障害なのかもしれない。
私自身が危うい状況にあって、真っ当な話を聞くと自分を否定してしまうから、講演会を企画しないようにしてきたし、参加も避けていたように思う。
今回参加してみて、耳が痛く、吐きそうになったとしても、いくつかは実践してみようと思うことがあった。講演会って、そんなものなのかなと思った。
司会者が「先生のお話は4回目で、毎回自分を改めようと1ヶ月、いや1週間頑張るんですけど、薄れてきてしまって…」と話されていた。定期的に整体に通うように、子育てにも外部刺激を入れて考えを改めた方がいいのかもしれない。
そう思ってみるものの、どうも違和感がある。
それは、私がポンコツだからだろうか。
通常、講演会は1時間半〜2時間。その限られた時間で、子どもに必要なことが語られる。
子どもの健全育成には、親の努力が必要。それはわかる。
では、頑張っている親のケアはどうしたらいいのか。大人なんだから自分で考えなさい、ということか。
「泣けちゃうわよ」というお誘いのとおり、会場内には鼻を啜る音が響いていた。
私は胸が熱くなる場面はありつつも、泣くまでに至らなかった。
仕事の知り合いもいる中で、自分をさらけ出すのが怖かったのだろう。
「泣いている人たちは何を思って泣いているのだろう」とよくわからない角度から見ている自分がいた。脳の話もあったから「感情を出せないのは、自分の育ちの中で、脳の一部分が萎縮しているからかもしれない。」と変な推測にまで及んだ。
要は、純粋に泣いている人たちを、羨んでいた。
小難しく考えず、喜怒哀楽を味わい、自由に生きたい。
こうして綴りながら、私は2時間の「子育て講演会」を消化した。
本当は、会場でアウトプットの時間があると最高だけど、それを好まない人もいるし、子どもを預けている人もいるので難しい。
家に帰る前に、文字にして消化できてよかった。
それにしても、「私自身が喜怒哀楽を味わい自由に生きようと思った」なんて感想に至った人はいないだろうな。
親でありながら、主催者にもなり得る立場で参加してしまったから複雑化してしまった。
「講演会を聞く」という同じ行為をしても、参加者の持ち帰るものは人それぞれ。それでいい。
主催者の立場で考えると、私が自分を責めてしまったように、「講演会をすることで誰かを苦しめるかもしれない」という私の優しさは、余計なお世話だ。
例え、真っ当な「子育て講演会」を開催したとして、参加を決めるのも、どう受け取るのかも、相手の自由。主催者は場をセッティングするだけ。傲慢になってはいけない。いいことを気づけた。
帰ったら娘の浴衣の裾上げをしよう。
私は一般論で満足いく親にはなれないけれど、それなりに子どもたちのことを想っていることは認めてあげよう。
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