夜明けのすべて/寄り添うということ

*家庭話

夜明けのすべてという映画を見た。映画館の予告で見て気になっていたのを、今SixTONESをすきになったこともあり更に気になっていたのをやっと見れた。
生理により精神的に不安定になってしまう藤沢さんと、パニック障害の山添くん。2人は互いの病気を理解しようとし、特別な距離感になっていく。恋愛とも友情とも違うそれは、最終的に「出会えてよかった」という出会いになった。

2人の寄り添い方、というか、病気を持つもの同士だから成立するコミュニケーションがどこか不思議であたたかく、また彼らを取り囲む人たちの多くも彼らに優しく、彼らがより苦しまないように接している。夜明け前がいちばん暗い。自分じゃどうしようも出来ないことを、周りが手伝ってくれる、そういう環境の中で過ごす。それはたしかな病気による不自由、苦しさ、怖さという暗闇の外側から、星のように目印になったり明かりになったりするのだろう。そうして夜明けはやってくる。

私の父も同じように、私が小学生のまんなかくらいの時に、電車に乗れなくなったらしい。親の離婚までの家庭での記憶がほとんどないのと、子どもの前ではそういう暗さは見せてなかったのか、私自身ほとんど父の病気を感じた記憶はない。しかし実際に父と母はそれがきっかけで離婚しているわけだから、病気だったのだろう。
電車に乗れない、人の多いところに行けない、聞いていたのと同じ症状だった。パニックになるということの想像がついていなかったが、ああいうことだったのだろう。父は鬱病になり仕事を辞めあまり外に出られなくなった、母は父に寄り添いきれず離婚したらしい。他にも性格の不一致などあったかもしれないが、私は覚えていない。
寄り添うことはむずかしいことだと思う。
映画のように職場の同僚くらいの距離感だったら、一緒に過ごす時間も寄り添う時間も長くない。しかし同じ家に住んで、家族である以上、きっと全く別物なのだろう。また、理解があっても、共感は出来ないし、山添くんと藤沢さんのようにはなれない。恐らく。あれは経験があってこその関係であって、言葉にはどうしたって経験が伴う。同じ言葉でも重みも響きも届き方も違う。ある意味不平等なことかもしれない。人はひとりひとり違う人生を送っていて、同じ人生などただの一つもない。なのに、同じような経験をしていないと届かない言葉がある、どんなに好きでも力になりたくてもそばに居たくても助けたくても、どうしようもならない。仕方ないことだ。私は父と母の離婚は仕方ないことだったと思っている。父が仕事を続けられなくなり、母は1人で働いていた。子どもは2人いて、まだ小さい。父は精神的に参っていて、喧嘩も増えた、仕方ないことだ。割と最近に母が「何をしてほしいか言ってくれたらもっと力になれたかもしれないのに」というふうに言っていた。しかし父がそういうことを言えなかったのも仕方ない事だったのだろう。諦めではなく、事実として。精いっぱいだったのだ。離れるしか無かっただろう。

父は実家に帰り、もの忘れが増えた祖母をみながら暮らしていて、たまに遊びに行って美味しいものを食べさせて貰っている。病気はだいぶ良くなったようで、元気そうだ。離れるという選択肢は正しかったのだろうと思う一方で、離れるしか無かったという状況には切なさを覚える。私は前述した通り仲の良かった両親の姿などもほとんど覚えていないので、また仲直りして欲しいなどとも思っていないが(仲が悪いわけではない)それでも人が故意に離れる時、何が足りなかったのかなどは考えてしまう。経験がない人が間近で寄り添う時、そこには何が必要なのだろうか。
親の話と言えどほとんど想像するしかないことだが、今回この映画を見て親のことを考えないのも不自然だろうと思い、素直に考えてみた。2人の演技が素晴らしく特に北斗はこういう一見クールな役が似合う!いい映画だった。

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