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インフォメーションヘルスを守るのは本当にマスメディアなのだろうか

前回の記事で「インフォメーションヘルス」という言葉を紹介した。もう一度少し説明すると、総務省の有識者会議「デジタル時代における放送制度の在り方に関する検討会」でも使われた言葉で、言葉通り「情報の健康」をどう守るかのキーワード。有識者の一人として参加した慶應大学教授・山本龍彦氏が東京大学教授・鳥海不二夫氏とともに出した共同宣言に登場する言葉だ。

フェイクニュースが飛び交うネット上の言論空間で"取材や編集に裏打ちされた 信頼性の高い情報発信"に基づく放送は、インフォメーションヘルスを確保する役割への期待が高まっている、それが総務省の解釈だ。放送制度に関する会議なので「放送」に限定されているようだが、広く考えれば新聞雑誌も含んだ旧マスメディアがインフォメーションヘルスを守る上で今後も必要だとなる。

私は新聞やテレビの報道に批判的なことも書くが、「基本的には取材や編集に裏打ちされた情報」は必要であり、それを発信する旧マスメディアの役割は逆に高まっていると思う。だからインフォメーションヘルスは旧マスメディアがネットでも頑張って守ってほしいと考えている。

だが今週、本当にそうなのかと考え込んでしまう一件を目にした。

誤送金を使い込んだ男が信頼したのはYouTuberヒカル氏

一時期毎日のように報じられた、山口県阿武町の誤送金事件。受け取った田口翔という青年がその金を使い込んで逮捕され、彼のことも連日各メディアが報じた。

その田口青年が今週の月曜日、8月1日に釈放された。彼は警察署を出ると待ち受けたカメラの砲列に一礼し、白いワゴン車に乗り込んだ。YouTuberヒカル氏のチームが用意した車だ。

山口県に乗り込んで、車で阿武町に向かうところからずっと撮影し、田口青年と会ってホテルの部屋でじっくり喋る様子がヒカル氏のYouTubeチャンネルで配信された。

40分以上の長い動画だが、なんとなく見始めた私は一気に最後まで見入ってしまった。そしてかなりの衝撃を受けた。大袈裟に言うと、報道における役割交代が起こった。旧マスメディアにできないことをヒカル氏はやったと感じた。インフォメーションヘルスを守るのは、YouTuberなのではないか。

田口青年は釈放に当たり弁護士に頼んでヒカル氏にコンタクトした。そして阿武町に返すお金、4000万を貸してくれないかとお願いしたそうだ。そこから弁護士を通じて話を進め、結局阿武町側は4630万円の大半をすでに回収しており、ヒカル氏が貸したのは300万円になったこと、それを貸す代わりに独占取材をすること、さらに田口青年が社会復帰するための仕事を、ヒカル氏が関与するブロッコリー事業の会社で用意することなどを約束したという。きちんと書面も交わしたそうだ。

ヒカル氏は、田口青年がやったことは犯罪だが、誤送金がなければ起こらなかったことで、巻き込まれたとも感じているという。だから手を貸すのだが、一方で田口青年の動画により注目を集め自分もトクするwin-winの関係だとも説明する。

私は、よくできた仕組みだと感服した。田口青年はマスコミにより過去を晒され、職を転々とする落ち着かない男だと思われてしまった。それをネットでさらに拡散され、根も葉もないことも加えられて叩かれまくった。このまま釈放されると彼を雇う会社はないだろう。そんな彼の言わば更生の道筋をつけてあげようとしているのだ。それによりちゃっかり動画を話題にして再生数を稼ぐ。実際、現時点で400万近くの再生数になっている。

田口青年はなぜメディア不信になったのか

動画では田口青年の話をじっくり聞いている。当然一方的に彼の話を聞くことになるので「報道」の観点からは客観性に欠け「鵜呑みにしてはいけない」ことになるだろう。ヒカル氏も完全に彼の側に立っている。ただ、田口青年がメディアに触れた部分がある。

「指名手配にはなってないんですが、メディアがもう指名手配って勝手につけて」
「阿武町も・・・行方不明には僕なってないんですけど、行方不明ってことにして報道に流れちゃって」
ここで彼が言う「メディア」とはマスメディアとネットが一緒くたになっている感はある。ただ「行方不明」という言葉がワイドショーなどでコメンテーターの口から出たことはあったと思う。実際には警察で任意の事情聴取を何度も受けていたそうで行方をくらましたわけではなかった。

インタビューから、彼がいかにメディア不信に陥ったかがよくわかった。その決定的な言葉を途中で口にした。ヒカル氏が、大勢の人が見てるのでここで言っておきたいことをと促した時だ。(動画の26分過ぎあたり)

「お母さん、妹、友だちの皆さん、阿武町に元々住んでた皆さん、(中略)元々住んでた山口市の職場、小学校中学校、高校、職場なり家なり、色んな報道陣の方々が多分行ってます。自宅にカメラが来た人も聞いております。ほんと、ご迷惑をおかけしました。今から仕事とかで借りた恩は返したいと思います。申し訳ありません、」

彼が特別に言いたいことは、家族や知人友人に迷惑をかけたことへの謝罪だった。そしてその迷惑とは「報道陣が自宅にまで来た」ことについてだ。私はそこに強い衝撃を受けた。そうか、だからYouTuberヒカル氏しか信じられなくなったんだな。

どのメディアがどう報じたかはいま簡単に明らかにできないが、この事件が報じられた頃は田口青年を、軽佻浮薄なパリピ的若者であり、お金を使い込みそうな人物として描いていたと思う。小学校の寄せ書きからお金への執着を導き出したり、人物像を決めつけていなかっただろうか。

ヒカル氏はそんな報じられ方に一石を投じている。確かに動画でしゃべっている様子からは朴訥な若者に思える。もちろんお金を使い込んだことは罪であり、本人も重々認めて反省しているようだ。ただ、ヒカル氏が彼に「阿武町に対してはどう思うか」と聞いた際に、数秒間黙り込んだ末に「ノーコメントで」と言っていた。そりゃあ言いたいことはたくさんあるだろう。阿武町がたった一人に4630万円もの大金を振り込んだことは、犯罪ではないが大失態だ。田口青年を強く責めるのもどうかと思うが、町長は強く責めていた印象だ。

これまで田口青年の側の言いたいことや、彼がどんな人物かをマスメディアは伝えてこなかった。取り調べと逮捕勾留されたからだが、ようやく釈放され話を聞くことができる状態になった時、彼はメディア不信にすっかり陥っていた。その代わりにYouTubeで喋ったことをほとんどそのまま配信してくれた。

田口翔という青年がどんな男かについて、インフォメーションヘルスを保ったのはYouTuberヒカル氏だったといえないだろうか。もちろん、インフォメーションヘルスを大きく濁られたのも様々なYouTubeチャンネルだったろうしネットメディアの雑な記事やSNSだったろう。ネットが濁らせた情報的健康状態を取り戻したのもネットだった。そこでマスメディアが果たしたのは警察や町役場、そして田口青年の家族や知人友人たちから得た情報。しかも多分に人物像を決めつけて集めた情報だったのではないか。それは例えば、この記事のサムネイルに表示される田口青年の顔写真にも表れる。

雑誌「週刊女性」のネット版である「週刊女性PRIME」が選んだ写真はいかにもパリピっぽい軽佻浮薄な男をイメージさせるものだ。これをまたSNSで囃し立てて彼の人物像が膨らんでいった。

ネットがある前提で報道の在り方を見直すべき時

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