自分のやりたいようにやると決めました。最後に責任を取るのは私ですから〜さんいん中央テレビ・田部社長インタビュー(前編)
MediaBorderではこれまで、『かまいたちの掟』を制作する川中優氏と、中国向け越境ECに携わる岡本敦氏、二人のさんいん中央テレビの社員にインタビューしてきた。それぞれユニークな番組・事業をやっていて面白かったが、お二人の話の中に社長の話が盛んに出てくることにも興味を持った。
そこで、社長にもインタビューを申し込んだ。月の半分は島根、半分は東京にいるそうで、何とか時間を作っていただき青山にあるオフィスでお会いした。
社長の名前は田部(たなべ)長右衛門。島根県で500年以上続いてきた田部家の第25代当主で、現在43歳。おそらく全国の地上波民放の社長でいちばん若い。田部グループという地域財閥の事業もありつつ、さんいん中央テレビの社長も務めている。また、さんいん中央テレビは元々の通称「テレビしまね」からTSKとも呼ばれているが、テレビ局として様々な事業にも取り組んでおり、全体をTSKグループと呼んでいる。つまり田部氏はテレビ局の社長であり、TSKグループの代表であり、田部グループの当主でもある。
地域財閥の後継として難なく社長を継いで楽々やってきたと思う人もいるかもしれない。そんなことでは全然なかった。奮闘しながら部下たちと堅い関係を築き本当のリーダーとなり、新しい形でTSKグループを経営している。その姿を、ぜひ読み取ってもらいたい。
父が作ったテレビ局を36歳で継いで社長に
※以下、「」内は田部氏の発言
---まず田部家について教えてください。
「元々、紀州田辺の武家で、島根県に移ってきたのが1246年。11代目の当主が戦で亡くなり、その息子が戦争ばかりでは一族の繁栄はないと考え武士を辞める決断をして1460年にたたら製鉄を始めました。そこから数えて25代目が私になります。」
---さんいん中央テレビはお父様が最初の社長だったのですよね?
「そうです。当時テレビ局がなかった島根県でいくつか開局の動きが出てきた中で、最終的には竹下登先生の裁定で父がやることになりました。」
---島根のテレビ局開局に田部家が名乗りをあげたのはどういう背景だったのでしょうか。
「田部家は数百年たたら製鉄でやってきたのが大正10年で製鉄業が終わってしまった。その後は、たたら製鉄に付随するいろんな事業、炭を作るとか、林業や農業などで食いつないでいました。いくら日本に長寿企業が多いとはいえずっと続けるのはなかなか難しい。継続していくためには事業を多角化すべきだと、祖父が地元の島根新聞社(のちの山陰中央新報社)を買って、メディア業界に入っていく流れができました。そして父の代でテレビ局を始めて、今のグループの基礎を作りました。祖父の多角化の考え方を引き継いで、例えばケンタッキーフライドチキンなどのフランチャイズ事業を始めたのも父です。」
---そのお父様が始めたテレビ局を引き継がれた形ですね?
「流れだったのかもしれません。ただ私がまずフジテレビに入社したのは2002年、(注:先代は1999年に急逝し、当時田部氏は学生だったため別の人物が社長を継いで卒業後田部氏はフジテレビに入社した)それから20年経って業界は激変し、その中でテレビ局をどうしていくかがテーマです。」
---2002年にフジテレビに入られて、2010年に地元に戻られた。最初からテレビ局の社長になられたわけではなく?
「最初は平の取締役でした。その頃は、正直言うと実家の会社もあまりうまくいってなくて、その立て直しもあったのでテレビの事業に注力できませんでした。2年経ってから、当時の有澤社長が事業開発局を作ってくれてその局長を託されました。」
---そして2016年に社長になられた。
「はい、36歳の時です。
社員を想って制度改革を次々断行
---社長の前に、岡本さんと川中さんにお話を伺いましたが、お2人とも田部社長に代わってから会社の空気が大きく変わったと盛んにおっしゃってました。社長になられた時は、変えていこうというお気持ちだったのでしょうか。
「私が帰ってきた頃のさんいん中央テレビは、柔軟性がなくなっていました。社員に対しても杓子定規で少し冷たい社風。制度面でも問題あると思えるものが残っていて。」
---改革せねばとの思いだったのですね。何かメッセージを発信されたのでしょうか
「当時30代前半でしたが、先輩たちと飲んだりすると、会社の愚痴を聞かされました。自分の父親が人生の大半、30年近く社長を務めた会社がこんなにみんなに文句を言われている。それが非常に嫌で、自分が社長になったら色々変えていこうと、まず打ち出したのが『人・地・想』という経営理念でした。まず、人が1番上に来る。お客様も視聴者も、スポンサー様も、社員とその家族もみんな人。人を1番大事にするのが田部家伝統の考え方です。2番目が、地域。地元を大事にしよう。3つ目が、想い。想像力を持って、仕事に当たろうと。この経営理念を社内に徹底していきました。」
「まず人なわけですから、社員とその家族に満足してもらえるような制度を作ろう。みんなが不満に思っていた制度は廃止。そして、給与改革。手当類を思い切って拡充していきました。子供手当は、4人産まれたら月8万円。それと年1回、会社に対して要望とか未来レポートを出してもらって、こういう風にやりたい、 こういう風に改善してほしいなどと書いてもらっています。全部私も見てまして、そのまま全部総務に投げ、すぐ対応する。1個1個、出てきた意見は全部潰してます。それを総務か上司から本人に全部説明させて、フィードバックしてます。」
---それはみなさんやる気が出ますね。
「給与制度改革と人事制度改革は毎年やってます。私が社長になってから社員の皆さんにお支払いしてる給料は、ものすごく上がりました。コロナになっても、うちは一切下げてない。そんなに上げたら赤字になっちゃいますと言う者もいました。私の考えは、赤字にしてはいけないけれども、社員と社員の家族にきちっとお給料を払ってることを、後ろめたく思う必要はない。だったらそれ以上稼げばいいじゃないかと。」
勝つまでやれば負けない
---素晴らしい考え方だと思います。
「それから部長・局長級に対しては、下から上がってきた企画は必ずやらせろと言ってます。前はできない理由をつけてやめさせていた。芽を潰さずにやらせろ、下からの提案を潰してる局長は解任すると言いました。300万円かかる企画が通ったら、本人だって頑張るから200万ぐらいは稼いでくる。たった100万でやる気やモチベーションが担保されるなら、やらせた方がいいという考え方です。」
---局長さんたちはそれを実行したのでしょうか?
「社長になってすぐの時は、結構抵抗されましたね。役員たちにもいろいろ反対されました。当時、借り入れをするのは悪だという文化があって、それも説得しました。役員会で怒号が飛び交うほど大喧嘩になりましたが。内部留保があってキャッシュリッチだったので、金融機関と付き合ってなかった。そうすると、情報が入ってこないんですよ。地方では、1番情報を持ってるのは地域金融機関です。だから付き合いでちょっと借り入れをしようと言ったのですが、なかなか理解してもらえない。僕がオーナー家の息子だから、みんなが言うことを聞いてくれると思われがちですが、そうではなかったですね。」
---当時は30代でいらして、古参の役員は60代くらいの方々でしょうけど、相当年齢が違う中で孤軍奮闘されたわけですか。
「年齢は関係ないですけどね、年は関係ない。とにかく最初の頃は苦労しました。そうとう戦って、途中からこの人たちの言うことは一切聞かないと決めました。自分のやりたいようにやる。最終的に責任を取るのは私。だからもし何かあれば責任を取って辞めるだけですから。」
---すごいご覚悟です。
「新規事業にも抵抗がありました。私は下から上がってきた企画を拒否したことがない。日本の稟議書システムが良くないのは、書類上で利益が取れてないと始められない。そんな新規事業なんかありえないですよ。もちろん回収計画は作りますが、新規事業は基本的にやってみなきゃわからない。10年経って化ける企画もありますからね。今私がやってる様々な企画の中には赤字の事業もあります。それを、勝つまでやる。 勝つまでやれば負けない。全戦全勝の秘訣は、勝つまでやることです。」
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