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SNSがなくなったほうが、人類のためにいいんじゃないだろうか


SNSを見なくても生きてはいける

フジテレビはその全盛期に、ブランドCMを制作して放送していた。面白くて毎年新作が出るのが楽しみだった。88年のコピーは「フジテレビを見なくても生きてはいける。」というもので、反語的なレトリックでフジテレビの面白さを表現していた。2025年、これがものすごく悲しいフレーズになってしまった。「フジテレビにCMを出さなくても生きてはいける。」と言ってしまえる状況が来るとは、当時誰も想像できなかっただろう。
そしてもうひとつ、このコピーをもじるならこういうのもできてしまう。「SNSを見なくても生きてはいける。」生きてはいけるけど見ないとつまらないよね、という元のコピー通りの受け止め方もできるが、SNSなんか見なくても生きていけるぞという、ストレートな解釈もできる。いまのSNSは、「見なくてもいい」ものに思える。
SNSの代表選手がXだとするなら、Xなんか見ないほうがいい。本気で、Xを閉じて二度と開かない人生を選ぶ時ではないかと感じている。

「対戦型SNS」に成り果てたX(元Twitter)

イーロン・マスク氏は2024年2月にこんな投稿をしている。

「PvP」とは「Player vs Player」の意味で、日本ではこれが「対戦型」と訳されている。冗談じゃないよ、と言いたくなる。XがTwitterだったころは、時に炎上することはあるにしても、多少投稿に気を遣っていれば人びとと興味ある話題を楽しくやりとりする場だった。好き好んで「対戦」する必要はなかった。
だが確かに、マスク氏が買収しXに名を変えてからは危なっかしくてうかつに投稿できなくなった。ちょっと言葉の選択を誤ると、こちらにその気がなくても対戦を仕掛けられる。Twitterだったころは言わば「農村」で、農民同士語り合えたのが、Xは「戦場」でいきなり斬りつけられかねない。こちらも武装し、何かあれば刀で応じすぐさま逃げ出す必要がある。
前は記事を書くたびに投稿すると、面白がってくれたり共感してもらえ、リプライをもらえた。そこから数名で話が盛り上がることもあった。時には、実際に会いましょうとなることもあった。
いまは記事を投稿しても盛り上がらない。「いいね!」がたくさんつくことはあるが意見のやりとりはあまりしなくなった。おそらくだがお互い慎重になり、共感してもうかつに感想を投稿しなくなったのだと思う。
反応する人も減ったように思う。私をフォローしている数千人の人びとは10年前からのユーザーで、ひょっとしたらアカウントは残してもう去っていったかもしれない。「農村」だったTwitterでのびのびやりとりしていたからこそ、「戦場」となったXにはいられなくなったのではないか。実際、私の投稿への反応はめっきり減った。
いまもXで盛んに投稿しているのは、まず世間的に有名な人びと。何十万人もフォロワーがいて投稿が望まれているタレントや文化人。
そして炎上上等の好戦的な人びと。批判的なリプライをむしろ待っていてばったばったと斬りかかる。だが斬っても斬っても相手は痛くもかゆくもなさそうで、斬り合いが延々続く。
それから何かに強い不満を持つ人びと。世の中や会社や家族や中には犯罪者にひどい目に遭ったことを書きつづる人びと。これには賛同者、共感者がリプライをつけて支援的なやりとりが連なる。時にそれに異を唱える人物も登場し、共感者たちと対戦を始める。
面白いのは、さほど著名人ではない、強い承認欲求を持っている様子の人が言わなくてもいい強い批判投稿を頻繁にしていること。反感をまき散らし、時に反論や非難を浴びると猛然とかみついてくる。関わり合いになるとロクなことにならないので、決してからんではいけない。
このようにXは、対戦型になっても数多くのフォロワーにメッセージし続ける必要のある著名人、ビジネス上告知せざるを得ないアカウント、そして対戦型の場を大いに楽しむ奇妙な人びとの投稿の場になっている。私ももっぱら情報収集のために開くが投稿はめっきり減った。

偽誤情報だらけのXをマスメディアは無視できるか?

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