見出し画像

2022/9/24:ゲルハルト・リヒター展

ここ数日、東京も台風の影響で、しつこい雨と憂鬱な低気圧が続いています。ここまでだらだらと台風が影響しているのも、なんだか久しぶりなような気がします。わたしは1週間以上おくれている生理のタイミングが重なり、しかも夜眠ることができず、かなりしんどい数日を過ごすことになりました。これを書いている現在は朝の5時半。天気予報では、きょうの昼以降から回復してくるようですが、さっき外を歩いたらまだまだ雨は激しく街を濡らし続けていました。

1週間ほどまえ、その日も豪雨でしたが、リヒター展へ行きました。わたしはリヒターの作品に詳しくないですが、彼が旧東ドイツ出身のアーティストだということで、興味がありました。

リヒターが西ドイツへ向かったとき、彼もまた、そちら側へ行かなければ自由に絵を描くことができないのかもしれないのだと感じたそうです。より進歩した民主主義のなかで創作活動をはじめたリヒターは、その「自由」をどのように体験したのでしょうか。「自由」は明らかで開放的なものではなく、彼が描くその作品たちのように、人びとの目には形とならない・捉えどころのない・顔のない・それになったのでしょうか。歴史やイデオロギーや社会生活の張り付いた世界では、どこに行ったって同じだったのでしょうか。

ビルケナウという、ある意味ドイツの汚点と言ってしまえるものを対象とした作品を生みだしつつ、ドイツ国旗を描いた作品があることも、印象に残りました。その作品には下のように説明がついていました。

ゲルハルト・リヒター展 | 東京国立近代美術館 より

「偶然と必然」
リヒターは自由と、個人の目に映るものを真に愛しつつも、国家や生まれという避けようのなかった運命のうえでしか成り立たない世界があり、それには否が応でも縛られざるを得ない(得なかった)。そして縛られようとも、そのときの個人が見るもの・感じるものは完璧に個人にしか帰属しない。ほかの誰も代わりに体験できないだろう。
ビルケナウは繰り返してはならない(実際にまた先進国同士の戦争は起きたが)悲惨な事例であるからこそ、このように芸術として立ち現れることの意味は重く、捉え方が困難です。しかし、究極の自由・人類がいつまでも求め続ける自由とは何か、を突き詰めると「偶然と必然」という枠のなかに永遠に縛られるのだと思わざるを得ません。だからこそ、リヒター展には「戦争」と「個人」が同時に存在していた。
世界史的にも重要な時期や、激しいイデオロギーの合間に立たされたリヒターであるからこそ、そのように言えてしまうのかもしれないと、わたし個人の勝手な感覚で解釈しました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?