小田原合戦時の山姥切国広・本作長義の所在について

今回は小田原合戦時の長尾顕長の所在及び山姥切国広・本作長義の動きについて考えたい。
主題は山姥切国広の作刀及び本作長義の銘入れはどこで行われたのか。
私は鉢形城と金山城の可能性を探ってみたい。まず各書物にどんなことが書かれているのか簡単にまとめる。

『上州治乱記』
・長尾顕長が鉢形城にいた
・由良長尾兄弟が小田原に籠っていた
・由良長尾兄弟が金山城に籠っていた

『上州坪弓老談記』
・由良長尾が小田原に約三百騎の加勢を出す
・合戦後、由良の居城である桐生城が没収される

『上州金山軍紀』
・由良長尾が小田原に約三百騎の加勢を出す
・合戦後、由良の居城である桐生城が没収される

『新田正傳或問』
・由良が小田原に軍を遣わす

『鉢形落城哀史』
・鉢形から小田原へ軍勢を派遣をしたが到達できず

『金山及大光院』
・国繁顕長が小田原から桐生に逃げ帰るが金山桐生没収


『上州治乱記』一冊内でもかなりの揺れが見られるが一つ一つ考えていく。また上から4冊は全て『国史叢書』という1冊の書物内に纏められている。

まず初めに長尾顕長の居城はどこだったのか。
書物によって鉢形・忍・館林・足利と様々あるが、鉢形は北条氏邦、忍は成田氏長が城主、舘林は北条領であり、足利城は天正十七年に破却されている。よっていずれの城主でもないと考えられる。

次に長尾顕長は小田原城に籠城したのかという点について。
『国史叢書』内の複数の書物に「新田・足利へも三百餘騎、小田原へ加勢あるべき由告げ来る。」「天正十七年十一月廿六日、小金井四郎右衛門・藤生紀伊守・林伊賀守・金井田傳吉郎・茂木馬之丞・江田兵庫助を大将として、上下三百六十餘人、成田左衛門殿の幕下になりて、小田原へ馳せたりける。」とある。つまり小田原への加勢命令には本人達は行かず軍勢を遣わしたという話だ。

では長尾顕長は小田原合戦時にどこにいたのか。
現在有力とされている説は大きく分けて小田原城説と足利説の二つ。ここに鉢形城と金山城を加えたい。小田原城説に関しては様々な書物にも「小田原城に籠城していた」との記述があるが、いずれに関しても上記書物の記述を考慮し今回は外して考える。足利説に関しては天正十八年に足利城での戦いを労った書状(長尾宛ではない)があり、既に破却されていた足利城が復興され使われていたのならば加勢として長尾顕長が足利城にいた可能性も否めない。しかし足利城にいたという記述を今回は発見できなかった為これも外して考える。では残った鉢形城と金山城、この二つを考察していく。

①金山城
記述があるのは『上州治乱記』。「関八州に籠城したる人數、~(要約)~同国新田金山城には、由良信濃守成繁・舎弟長尾新五郎景茂~」とある。成繁は国繁・顕長の父、景茂は先祖であるがいずれも小田原合戦の時には故人でありまた兄弟ではないため、これは国繁・顕長の事であると考えられる。由良国繁は元々金山城の城主であったが先の戦にて北条に引き渡し、この当時は桐生城へ移っている。しかし桐生城は小田原合戦時の主要な城として配備されていないため、合戦の為に金山城に参加したとすれば自然な話である。また顕長は当時居城を没収されており居所が明確には掴めていない。人を頼って身を寄せていたとすれば、兄である由良国繁の元にいた可能性がある。とすれば兄と行動を共にしていてもおかしくはないのではないか。
長尾顕長が金山城にいたとするならば、山姥切国広の作刀については金山城と足利学校の2パターンが出てくる。金山城は堀川国広が身を寄せていた足利学校から徒歩で3時間ほどの距離にあり、また鍛冶曲輪もあった。作刀の時期については「弐月」と銘にあるが、この弐月は冬至から夏至(11月~5月)との考え方もあるため明確に「二月」とは限らない。金山城が落城するのは4月29日。この落城までの間に堀川国広を金山城に呼び寄せ鍛刀させた、もしくは足利学校で打たせて持ってこさせたのではないか。ただ既に戦が始まり敵兵や野盗に襲われる可能性もあるなかで刀を持って運ぶのはリスクが大きい。故に金山城で打たれた可能性の方が高いと考える。
本作長義の銘入れだが、これは明確に「五月三日」と銘に刻まれている。金山城落城の後である。つまり金山城で銘入れを行うことは出来ないため必然的に足利学校になる。また山姥切国広が「使うための刀として打たれた」と考えるなら、4月29日に敗北をしている以上5月3日以降に新たに刀を打つ必要は無い。つまり山姥切国広の作刀の方が本作長義の銘入れより先という事になる。ここで気になるのは「山姥切国広には長義の特徴が入っている」という事だ。堀川国広が本作長義の銘入れより前に打った山姥切国広に長義の特徴が入っているという事は、既に本作長義を見ていた或いは他の長義の刀を見ていたという事になる。しかし堀川国広の作風に長義の特徴が現れるのはこの山姥切国広作刀以降とされる。とすれば本作長義を事前に見ていた可能性が大いに高まる。では堀川国広はどこで本作長義を目にしたのか。おそらく足利学校だろう。長尾顕長は戦で本作長義を使いたくなかった為、戦火の及ばないかつ信頼のおける足利学校に本作長義を避難させていた。堀川国広は保管されていた本作長義を見ていた、故に山姥切国広に長義の特徴を現すことが出来たのではないか。


②鉢形城
記述があるのはこちらも『上州治乱記』。「爰に武州鉢形の城主長尾顕長、是は小田原へ子息を遣し、其身は北国の押へとして、北条安房守康邦、鉢形に在城し、櫻澤・八幡前に、砦をぞ構へたり。」とある。当時鉢形城の城主は北条氏邦の為記述に少し間違いはあるが、「長尾顕長が北条の将と共に鉢形城にいた」と読み取ることが出来る。兄・国繁は金山城へ、弟・顕長は鉢形城へ別々に加勢したものと思われる。鉢形城は足利学校から9時間ほどの距離、行けなくはない。また城下には鍛冶小路があり作刀・銘入れの環境も備わっていた。鉢形城が落城するのは6月14日、山姥切国広の作刀も本作長義の銘入れもどちらも可能である。『鉢形落城哀史』では「四月五日に鉢形城から小田原城に家臣を数人派遣したが、小田原城の包囲が固く引き返してきた」という話がある。この時点では鉢形城の出入りは容易だったようだ。
長尾顕長が鉢形城にいた場合の作刀・銘入れのパターンは4パターンある。「1.作刀・銘入れ共に鉢形城」「2.作刀・銘入れ共に足利」「3.作刀は足利、銘入れは鉢形城」「4.作刀は鉢形城、銘入れは足利」である。
一つ目は落城前に堀川国広を鉢形城に呼び寄せ行わせたというもの。この場合は作刀と銘入れの時期が極めて近いと推測される。わざわざリスクを冒して別の時期に2回呼ぶよりも、一度来てもらった時に纏めて行う方が手間もかからない。そして長尾顕長が佩刀していた本作長義を堀川国広が足利学校へ帰るときに運んだ。しかし大事な刀を"守る為"に避難させるのに、道中で奪われる可能性がある方法をとるだろうか?最初から自分の手で保管場所に持って行った方が確実である。よってこのパターンは可能性が低いとする。
二つ目は逆にどちらも足利学校で行われたとするもの。本作長義に関しては良い。しかし今度は山姥切国広が危機にさらされる。先述したようにせっかく打った刀を道中で奪われては堪らない。そもそも鉢形城で籠城している長尾顕長はどの刀を佩刀しているのか。既に手元に使う刀があるのなら山姥切国広の作刀を依頼する必要は無い。よってこれも可能性は低いとする。
三つめは作刀は足利・銘入れは鉢形城というもの。これも上記同様移動にはリスクが伴うことや作刀時期・作刀の理由等から鑑みるに可能性は低いとする。1・2と内容が被るため説明は省略する。
残ったのは四つ目、作刀は鉢形城・銘入れは足利である。既に足利学校で本作長義を見ていたのなら、山姥切国広の作刀時期がいつであれ長義の特徴を現すのは可能である。刀の移動もないためリスクは低い。作刀の時期が銘入れよりも前ならば、依頼した刀の出来に満足した長尾顕長が本作長義の銘入れもするよう堀川国広に直接頼んだかもしれない。


長尾顕長が山姥切国広を打たせた理由については「本作長義に感銘を受けたから」「戦で振るう刀が必要だったから」と様々あるが、私は後者であると考えている。長尾顕長が本作長義を拝領したのは天正十四年、山姥切国広を打たせたのは天正十八年、約4年の期間の後に戦の最中に打たせている。単純に本作長義の姿をこの世に残したかったというのであればあまりに期間が開いているし、戦で忙しい中でわざわざ写しを打たせる余裕があるのか。実際の二振りを見た方なら分かると思うが本作長義と山姥切国広は「本科と写し」とされながらあまり似ていない。似ていないというと語弊があるかもしれないが、似ているところもあり似ていないところもあり、といった感じだ。反りや長さ、刃紋も違う。そっくりそのまま丸写しというわけではないのだ。あくまで本作長義リスペクトのうえで別物として打たれている。つまり「本作長義の姿をこの世に広める・残す」という目的だと出来上がったものがズレているのだ。山姥切国広が本作長義を参考にして打たれたのは事実だろうが、「"写し"を作る」という目的で打たれたわけではないように思う。とすれば長尾顕長は何の為に作刀依頼をしたのか。私が思うに長尾顕長は「戦で使うための刀が必要だったから打たせた」「堀川国広の刀を所望した」のではないかと考えている。本作長義は主君である北条家から拝領した大切な刀、そういった刀は戦では使用せずに保管する場合が多い。絶対に使わないというわけではないが、自分の銘を入れるほど特別に思っていたのなら紛失や破損する可能性が高い戦場に持っては行かないと考える。しかし実戦用の刀は必要である。そこで当時ちょうど足利学校にいた堀川国広に「自分の刀を打ってくれ」と頼んだのではないか。長義の特徴をいれたのは長尾顕長の頼みか堀川国広の独断かは分からないが、結果として「本作長義の写し」であり「堀川国広第一の傑作」が生まれたのだろう。
(ここは個人の感情的な話になるが、人は自らの持つ技術に外部から新たな技術を取り込むことで爆発的な成長を見せることがある。山姥切国広作刀時に堀川国広にそれが起こったとするなら、それは堀川国広が長義の技術を取り込んだという事。つまり本作長義に使われている技術を堀川国広が吸収し新たに刀を打った結果、「長義」と「国広」二人の技術が融合した「山姥切国広」が生まれたのではないか。「本作長義写しに堀川国広の特徴が入り込んでいる」のではなく「堀川国広の刀に本作長義の特徴が入り込んでいる」のだと私は思う。)
「写し」という概念には現代に多い「丸写し」だけではなく写しを打つ刀工の味を加えてオリジナリティを出すものもあり、「姿が違うから写しではない」と一概に言えるものではない。しかし「なぜこの時期にこの姿の写しを打ったのか」という理由から考えると、上記のようなことになるのではと思った次第である。


さて金山城と鉢形城を考察してきて共通しているのは「山姥切国広は籠城先で打たれた、本作長義は足利学校に保管されていた」という事である。
この考察があながち間違いではなかったとすると、この二振りは同じ場所にあった事が無いことになる。豊臣方に奪取された時に宝物を一纏めにされたかもしれないが、少なくとも長尾顕長所有時はバラバラだった。先に考察した二振りのその後と合わせて考えると山姥切国広作刀時から1997年の「日本のかたな」展で同時展示されるまで、400年以上二振りは並んだ事がなかったのかもしれない。「本科と写し」と呼ばれながら400年経って初めて顔を合わせたと考えるとえも言われぬ感情が込み上げてくる。


今回の考察もあくまで一個人の意見であり今後の調べによって変わる可能性もある。また何か分かり次第書き記したい。


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