日記#84【美術館で作品を見ても何が鍛わってるかわからんよな】
私自身、美術品やアートをみるのが好きでよく作品を見に行ったりしているのだが見た後は謎の満足感に襲われる。見ている時はこんな細か所まで書かれているのかとかこれをなぜ私は美しいと思ったのだろうとか考えて見ているが、寝るとほとんどを忘れている。また、博物館や資料館で体感する剥製やモノには知識とヒモづけし、感覚的な大きさはだいぶ重要な情報であると思う。しかし美術品は作者がなにをもってこの作品を作り上げたのかを読み取り、正解かもわからない自分なりの答えをみつけるものである。それでも自分なりの正解を見つけてもこれは本当に作者が伝えたかったことなのだろうかと思い、不安になる時がある。
教科書に載るような作品を見たとしても、見に行ってわかる情報は教科書でもわかるし、書かれている。ましてやそんな人気な作品は周りの流れに押し流されて見れるのは一瞬である。一瞬しか見れなかった話など土産話にすらならない。
ではなぜ人の感性という曖昧の権化のような美術品やアートを見て満足するのだろうか。私は美術館でなんかいいなと思った作品があれば長く見てなぜいいと思ったのかを考えたりしている。だが人生が変わる程の変化をもたらす作品にまだであったことがない。また、そんな人生での考え方が変わるような作品に出合う確率も相当低いだろう。だが時間を無駄に浪費しているはずなのに不思議と後悔はしてないのだ。あまり美術品などを見ない人にはこの感覚はわからないと思う。こんな人の感性すらもアートなのかもしれない。