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なんのために泣くのか

買い物に出かけた帰り道。
電車に乗った私は、いつものように横に向くような形に窓際に立ち、座席に対して背中を向けていた。
すると背後から若い女性の泣く声が聞こえてきた。
中年以上の女性であればもう少し声が低いだろうし、子どものそれとは明らかに違ったため、若い人だろうと思うに至った。

電車内は空いていて、にぎやかではないものの、電車の走行音もあるし、決して静かではない。
そんな中「うっうっ」とかなりはっきりと「泣きじゃくる」という表現が合うような泣き声がする。
一時止まって、また聞こえてくる。
始めは聞き間違いかと思ったのだが、繰り返し聞こえるとなると空耳ではなさそうだ。

気になってしまって後ろを振り返り見回してみたものの、そうしたタイミングの時には泣き声が聞こえてこない。
結局泣いている人を見つけることはできず、車内の様子を覗っただけで終わってしまった。
座席には老若男女が座り、さらに奥のスペースにも何人か立っている人が見える。
その人たちひとりひとりをじっくり見るほどの勇気もなく、すーっと見て、すーっと元に向き直した。

そうこうしている間に降りる駅に到着してしまい、その後どうなったかはわからない。
泣く女がいたのか本当にいたのかどうかも、いたとしてその後どんな展開が待っていたのかも。

この年齢になると泣くことはあまりない。
正直、そんな感情が揺さぶられるような出来事に割いている時間がない。
映画とか、読書とか、他者とのあれこれとか、そういった時間だ。
ただ子どもがイベントで歌を歌うのは別で、あれは自然と溢れてくる。
懸命に頑張る子どもの姿というのは泣ける。

若い女性が人目を気にせず泣くのは、どんな時だろうか。
やはり恋愛ごとだろうか。
叶わぬつらい恋をしているのか、終わりを告げられた恋なのか、衝撃的な事実が判明したのか、どれを取ってもドラマが隠されていそうだ。傍観者としては成り行きを見守りたいものだ。

恋愛は楽しいけど、かつて私はああした感情の起伏によって、生活や仕事に支障をきたすのが嫌だった。
でも淋しくてひとりで生きていく度胸もなく、寄り添い、従っては傷ついていたように思う。
自分が世界の中心のように思った幼稚さも、思い通りにならない、言い換えれば思い通りにしたいと願う未熟さも、どれも若さ故に許されることなのかもしれない。

恋愛というものから学んだことは多い。
個人と個人が感情だけでぶつかり合うのだ。
それまで知らなかった自分をたくさん知ることができた。
恋愛はいいことだと思うけど、もうあんなに感情的になれるような情熱がないなぁと思ってしまう。

道を歩いては四季を感じ、街へ出ればカフェで茶を飲み、のんびりと自分が好きなものだけを目にして生活する贅沢を、恋愛抜きにして味わえる今が楽しい。
若さの特権は大いにあると思う。
年を重ねた楽しみは、あの頃にはわからないものだ。
私は今、楽しいから幸せだ。
泣く女に、いいことあるよと伝えられたらよかった。

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大須絵里子
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