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無名でいい、という価値観
皆さん、こんにちは。
今日は、有名であること、無名であること、どっちも価値があるって話を書いてみたいと思います。
昨今はフジテレビの話題で持ちきりですが、有名人・著名人ってなんなのでしょうかという話なんですよね(以下、「有名」、「有名人」と表記)。有名人というのは、主に「成功」が起点になっていると言えますよね。芸能であれば歌や演技や賞レースでしょうか、経済であれば起業や資産、その他、政治や芸術などなど、とにかく活躍した、活躍している、それゆえメディアに露出してきたひとなのでしょう。そんな有名人の定義のもとで、SNSが多くのひとの日常の少なからずを占めるようになってきた世界では、どこもかしこも有名人だらけで、有名人を見ない日がない方も多いのではないでしょうか。こうした、どこもかしこも有名人によって染まり切った世界だからこそ、有名人に憧れるひとも多いのだろうと思います。そして、有名人だけではなくて、(有名人と対比させて)一般人の方にとっても、自分が有名かどうかを測れる指標が生まれてきたのも大きいのです。つまり、従来では限定的であったスターダムへの道が、あらゆる仕方で公に開かれている、もしくは開かれているように見える、その成否の指標がSNSのフォロワー数等なのだと思います。これはもちろん正しかったりもします。ただ、こうした社会において、ぼくが重要なのでは?と感じているのは「有名になるかはあくまで結果である」ということであり「そして結果の一形態でしかない」ということでもあり、さらに「SNSの発信を通じてその結果を得ようとするのは大変だよ」ということかなと思います。
なぜ大変かって?それは、広いようで狭いからです。実際、映像を撮影して発信することって、なにをやってもよくて、それを映像として発信するのだから無限だって思うかもしれませんが、だからこそめちゃくちゃハードルが高いんです。世界中で同じことを考えているひとで溢れかえっていて、あらゆることがやられ尽くされているわけです。例えば、美術史の文脈で、「表現はやられ尽くされて、もはや新しい表現というのは難しい」とも言われてきているのですが(それゆえ、個人につながるナラティブ(物語)が重要になってきたり)、SNSが公の映像表現の場となったケースで考えると、膨大な発信が同様の結末を迎えさせるということは見えています。他にも、芸人が溢れかえると、漫才の新規性に限界が出てくる可能性もあります。
ただ、なぜこんな興ざめ的なことを書くのか?ここで強調したいのは、それは承認する側の問題だということです。言うなれば、有名人もスタートは無名であったということもそうなのですが、SNSが広がり、つながりや意思表示が溢れかえる構造において、承認を「する」「される」楽しさ、喜びは確かに存在するのかもしれません。今話題のテレビの世界もしかりです。民間放送局であれば、それは「人気商売」であるわけです。時間帯によっては、誰しもが少なくとも嫌悪感が生じない、望むらくは視聴者全員が楽しいと感じてくれるような番組制作をしなければいけないわけであって、そのためには人気タレントを起用せねばならない。なぜならば、「視聴率」という指標があって、それは企業としての「収益」につながる構造だからです。この人気商売というのは、時に極めてつまらないものになる、それは作っている方も、視聴している方もです。なぜならば、そこにオタク性や専門性は追求しづらいからです。放送コードの問題も同様です。昔のテレビは楽しかったと言われるのもまさに関係してきます。こうした「人気商売」と、SNSの「承認欲求」は同様の性格を有しています。つまり、多くの評価を得ようとすると、今この社会で刺さる価値観に準拠しなければならないことが往々にして起こる、ということです。こうした状況の問題点を、実はビジネスの世界では指摘されていて、イノベーションのジレンマ(※)という言葉があったりします。要約すると、お客さんのご要望に応え続けてより良いものを作っていたら、全く違う角度からもっとお客さんを満足させる商品・サービスが出てきて、大企業がベンチャー企業に一気に遅れを取る、というものです。要は、社会や自分の友人周辺に承認を求める活動に邁進するのは、必ずしも正解とは言えない、ということでもあります。もちろんそういう生き方や仕事を否定するつもりはないのですが、「人気商売」や「承認欲求」を重視した姿勢からは新しい「有名」は生まれない可能性が高いということでもあります。さらに、自分がそういう価値観ではないのに、社会や周囲の価値観に合わせないといけないとなると、それは健康的でもありませんよね。そして、この社会の価値観があまりにバイアスがかかってくると、そこに適応できないひとは幸せになりづらくなってしまいます。ぼく自身は、だからこそ次のようなことをオススメしたいと思います:
①自分が素直に心地よい価値観をもつひと(生きてるひとも、書籍等を通じた故人もあり)との時間を大切にする、
②ひとがコントロールできない自然との時間を大切にする、
③有名になりたい・健康でありたいのであれば、「承認される側」の世界に深入りしない、
こうした行動を取ることで、自分の考え方や意識と社会の一般常識とのギャップを気にせず、有意義な現在と広がる未来を享受できると考えています。
ぼくがペンネームとして、「名もなきおっさん」としたのは、まだこの社会では浸透しきっていない素敵な価値観を広げたいと思っているからで、今の社会で大切にされている価値観とはきっと多少のギャップがあるからです。それゆえ、「自分が信じている価値観」はまだ「名前がない」だろうということからこうした名前にしました。引き続きどうぞよろしくお願いします。
(※)イノベーションのジレンマ:クレイトン・クリステンセンが、1997年に初めて提唱した企業経営理論で、既存の製品やサービスの拡充に注力するあまり顧客の別のニーズに気づけず、後発のアイディアや技術革新に遅れをとってしまう現象を指す。