(2021.12.15 投稿)
どうも、おっさーです!
今回のPart②は、「日本における社会福祉の父」と呼ばれる糸賀一雄さんの著書、『この子らを世の光に』 の中から、 開園まもない近江学園で営まれていた、職員の生活についてのお話です。
終戦直後のあらゆるものが不足する中、身を尽くして使命のために働いた職員たちがそこにいました。
著者のプロフィール。
どんぐり金庫と職員の三条件
開園当初の近江学園は、経済的な面では将来の見通しどころか現在の基盤さえも不確かで、どんな困難が押し寄せてもたじろがない、全職員の団結が必要とされていました。
著者はこの団結だけをたよりにしていました。
そのような同士を求めるため、また、自分自身をいましめるため、「近江学園三条件」 を打ち立てました。
1、四六時中勤務
2、忍耐の生活
3、不断の研究
この三条件がもっとも端的にあらわれているのが「どんぐり金庫」です。
どんぐり金庫とはいうのは、職員全員の月給のプールに対して名付けられたものです。
各人がいろいろな財源を探しては確保した月給を、誰が言い出したともなくそれをプールして、ひとつの金庫をつくることになったのです。
その中から僅かのお小遣いを支給し、生活費を学園の会計に支払って共同炊事をし、残額のすべては学園の整備のために惜しみなく使われました。
この「どんぐり金庫」の財源と、経営費に計上された設備費と、共同募金の分配金とで、学園の中庭にはブランコができ、すべり台ができ、いろいろな教材が用意されました。
経営トップの人間がこれを指示したら完全なパワハラですが、誰が言い出したともなくこのような仕組みがつくれるというのは驚きですね。
まさに、職員全員、家族というような一体感があったからこそできたことだと思います。
四六時中勤務
職員はいくつかのクラスにわかれて、そこに、指導員という名の男性職員が一人、保母という女性職員が一人と組になって二名つくのが原則でした。
中学生以下の年齢では、保母がその子どもたちと同じ部屋に寝起きをしました。
男性職員は学園内の「ねぶか堂」という小部屋だとか、大風呂の片隅の廊下を仕切った細長い板敷の部屋 をつくって「夢殿」などと表札を掲げてそこに住んでいたり、学園内のあらゆるところに住んでいたのでした。
「四六時中勤務」というのは、文字通りそのままの意味をもっていたのです。
その当時の様子を、著者はこのように述べています。
このような体制は、学園が出発してから、かなり長い間続いたようです。
今でいう、ライフワークバランスなんてありません。
生活そのものが仕事であり、仕事そのものが生活といった状態。
このような生活は、自分の利益のためだけにはできません。
まさに、戦災孤児や障害児のために尽くす、使命感と覚悟がなければできないことだと思います。
この時のことを著者は、「苦しくともまた楽しい、夢のようにすぎた創業の日々であった」と振り返っています。
生活即教育、教育即生活
近江学園は、もと料理旅館であった建物が施設に転用されています。
その改造の第一号は、炊事場の改造でした。
改造の第一着手を炊事場にしたのは、著者がそこに根本的な意味を認めていたからにほかなりません。
施設において教育が重要であることはもちろんですが、それよりももっと重要なのは毎日の生活であり、生活の中心となるのは「食」だと考えたのです。
家庭から通ってくる学校とちがって、施設はそれ自体が家庭です。
家庭であり、学校であり、社会なのです。
「生活即教育」、「教育即生活」という言葉が学園内ではよく使われていました。
そして、炊事場は教育の場と考えられ、炊事に働く人たちを「先生」とよぶことにしていたのです。
著者は炊事について、このように述べています。
学園の医療
改造工事の第二番目は医局の造成でした。
施設という共同生活、集団生活の公衆衛生的な配慮から、収容している各個人の身体の発育、精神の発達に関心をもって見守りつつ、入園前から背負い込んでいる疾病、たとえば、ぜんそくやてんかんなどと闘わなければなりませんでした。
また、子どもたちだけでなく、職員やその家族、さらには、その頃無医村であったこの地域一帯のためにも門戸を解放しなければなりませんでした。
しかし、そのような任務を施設の医局が担当することで、施設が地域から融絶して閉鎖的になってしまうことを防いで、むしろ地域社会の中にどっしりと位置付けるのに役立ちました。
この頃のできごととして、著者はこのような話を語っています。
まとめ
開園当初、近江学園の職員たちは公私の境目がなく、仕事そのものが生活であり、生活そのものが仕事といったような生活をしていました。
この頃、余暇を楽しむような習慣があったかどうかはわかりませんが、この事業のために、使命のために、浮浪児や障害児のために、金も時間も、自分の生活そのものを捧げて尽くした職員たちに、尊敬の念をいだきます。
障害者による自立自営の社会をつくるといったような理想は、実現できるかもわからない相当困難な事業であることは間違いなく、ここまでの覚悟と徹底した行動が必要だったのかと思います。
また、これは単純な待遇の面という意味からだけではではなく、志の面からもそうなのですが、もしかしたら現代の施設でも、同じような状況や、想いをもって働いている人たちも多いのではないかとも思いました。