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【哀れみはいらない】全米障害者運動の軌跡 part 4 / ADA成立への道のり ギャローデット大学抗議運動

どうも、おっさーです!
今回は、全国規模の障害者権利運動へと拡大し、ADA(障害をもつアメリカ人法)成立へと道を開いた、ろう者・難聴者の大学、ギャローデット大学での抗議運動ついてお話しします。

1988年に起きたこの抗議運動は、アメリカの障害者権利運動において決定的な転換点となりました。
ろう者のための大学でありながら、一度もろう者の学長を持たなかったこの大学で、学生や教職員、支援者たちは
「ろう者の学長を、今!(Deaf President Now)」
と訴え、大規模な運動を展開しました。
この運動は、単なる学長選びの問題を超え、障害者が社会の意思決定に関わる権利を求める全国的な運動へと発展し、最終的に1990年のADA成立へとつながりました。

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反逆の発端

ギャローデット大学での抗議運動は、1987年の学長交代をめぐる出来事から始まりました。
開校以来124年間、一度もろう者が学長に選ばれたことはなく、次の候補者選びが始まると、ろう者の卒業生や学生の間で強い危機感が広がりました。

翌年、6人の卒業生が学長選考委員会の候補者リストについて議論しました。

「耳が聴こえないということは、聴こえる世界から期待されていないという現実と闘うことだ」
「ろう者の大学として世界的に有名な学校なのに、学長にろう者がいないのはひどい侮辱だ」

こうした声があがり、今こそ行動を起こすべきだという結論に至ります。

この決意のもと、学生たちはキャンパスで1500人もの大規模な集会を開き、「ろう者の学長を、今」と記された黄色と紺のバッジを配布し始めました。これが抗議の象徴となり、運動は瞬く間に広がっていったのです。


「ろう者の学長を、今」

スローガンを掲げた集会や抗議行動は全国的に注目を集め、特にテレビ中継によって広範囲に報道されました。集会では、ある講演者が力強く訴えました。

「公民権運動で命を失った人もいます。ベトナム戦争に反対して刑務所に入れられた人もいます。さて、今日、今この瞬間、私はここに立って皆さんにお聞きします。皆さんはいったい何を信じて生きていますか。何を理想にして生きていますか。」

この言葉は多くの学生に影響を与え、ろう者に対する社会の対応を、人権問題として考えたこともなかった多くの学生が、この言葉で目覚めました。


学長決定と抗議の激化

しかし、抗議の声もむなしく、理事会は唯一の健聴者候補であるエリザベス・ジンサーを学長に選任しました。
この決定に対し、人々の怒りは爆発しました。
学生たちは抗議の象徴としてプレスリリースを燃やし、さらにホテルにデモ行進を行いました。
警察隊はホテルの入口をふさぎましたが、デモ隊は手話で抗議を続けました。

理事会長は、「ろう者にはまだ聴こえる世界で機能する準備ができていない」と発言し、さらに批判を浴びました。
また、理事会長は7年間も理事を務めながらも、いまだに手話で会話ができない、なぜ手話を学ぼうとしなかったのか?その意識も、ろう者への無関心を象徴するものとして非難されました。


学校封鎖と全国的な支援

事態はさらに緊迫し、学生たちはキャンパスを封鎖しました。
授業はすべてキャンセルされ、新学長決定の撤回、ろう者の学長の選任、理事会の改革などを要求したのです。

デモの集会で理事たちは学生たちの説得を試みたが失敗に終わりました。
いよいよ理事長がしゃべりはじめるというとき、デモ隊は、連邦議事堂とホワイトハウスに向かってデモ行進を始めたのです。

突然の出来事に警官はあわててメガフォンで聴衆を誘導し、混乱を避けるように試みましたが、いくら声をあげても聞こえないと気づき、多くの警官は会場を離れ、学生らが町の中心地に向かうためのエスコートをするようになりました。

デモ隊は、新聞記者のこう伝えました。

「私たちは聴こえる世界の抑圧から解放されたい。聴こえる世界の抑圧から解放されたい。聴こえる世界に頼って生活したくない。自立した人間として生活したいのです」

この運動が全米に広がるにつれ、全国のろう者コミュニティ、弁護士団体、政治家が支援を表明しました。地元の企業も食料や物資を提供し、支援の輪が広がっていきました。


ジンサーの辞任と歴史的勝利

デモの代表者とジンサーは、全国ネットテレビの討論番組「ナイトライン」で対決、このとき番組では、初めて字幕放送がされました。

「いつか必ずろう者の学長が選ばれる。自分は固く信じている」
とジンサーが述べたのに対し、デモの代表者は、
「この『いつか必ず』という言い訳を124年間聞き続けてきたのです」
と反撃。

その日の夜、ジンサーは理事長に「辞めたい」と伝えました。

翌日の記者会見で、彼女はこう言いました。
「秩序を回復し、この学校が教育を継続するためには自分が辞職してろう者の学生を選ぶのが最善の方策なのでしょう」。

最後に手話で、「あなたたちを愛している」と伝えました。

抗議開始から1週間後、理事会は開校以来初めてのろう者学長を選任する決定を下しました。
この決定は、障害者権利運動における歴史的な勝利として記録されています。


ADAへの道筋

ギャローデット大学の抗議運動は、歴史的な公民権運動となりました。
単に大学内部の問題を超え、全米における障害者権利運動を象徴する出来事となったのです。
特に、抗議のスローガン「ろう者の学長を、今(Deaf President Now)」は、障害をもつ人々が「支援される存在」ではなく、社会を構成する平等なメンバーであるべきだという強いメッセージを発信しました。

この運動が起こった1988年は、ちょうど「障害をもつアメリカ人法(ADA)」の草案が議会で議論されていた時期に重なります。
ギャローデットでの抗議運動が全米の注目を集め、障害者の権利が広く意識されるようになったことで、ADAの議会通過への追い風となりました。
マスコミが「障害」と「権利」を同じ文脈で語るようになったことも、この運動の影響です。

大学の中で生まれた「変革の声」は、アメリカ全土を巻き込み、障害者権利運動を法的・社会的な進展へと導く力となったのです。

この運動が示すのは、声を上げ、団結することで社会を変えられるという事実です。
ギャローデットの抗議運動は、障害者運動における歴史的な勝利であり、その影響は今もなお受け継がれています。

哀れみはいらない:ジョセフ・P・シャピロ著

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