17歳のカルテ-リサ。
このお正月、映画『17歳のカルテ』を初めて観ました。それまで、この映画がこの障害を題材にしていることは知っていましたが、自分自身の姿と重ね合わせることになるとは思いませんでした。
もし私がウィノナ・ライダー演じる「スザンナ」のようなキャラクターだったらと思い込みたい気持ちもあります。でも、実際はアンジェリーナ・ジョリーが演じた「リサ」に近いと感じざるを得ません。
反社会性パーソナリティ障害の片鱗が、自分の中で疼く感覚。それを内省できないとき、「リサ」という存在は、ただ酷いだけの人物だと簡単に切り捨ててしまうかもしれません。
少しでも引っ掛かると相手を崩壊するのに最短距離で言及するストレートな攻撃、ロックオン状態で瞬きすらしないで見透かす目つき。
私はかつて、人が傷つくのを見ることに快感を覚えたことがありました。自分の言葉で傷つけるだけでなく、他人同士を対立させるのも好きだったのです。そのために情報操作し、他人同士を闘わせるサディスティックな態度をとることで満たされていた時期がありました。
相手が「敵」か「奴隷」ならば、どちらも対象とです。
「いい気味だ」「天罰だ」と自分に言い聞かせながらも、実際には火種を潰したい一心だったのかもしれません。「快楽」と見捨てられ不安からくる「一安心」を履き違え感じていたのです。
反社会性はさらに、見境なく、ルールが当てはまりません、スリルが伴いながらクリアしていく感じでしょうか、高いスリルほど大きな安心を手にした気が一時的に起こるのです。
怒りをコントロールできなかった頃、私は激しい怒りの中で、どれだけ相手を苦しませることができるかを考えていました。お試し行動の最大級版です。
けれど、今では思っても行動に移さない、というシンプルな方法を実践しています。また、一人になった瞬間に後悔しそうな行動は避けています。一人になってから頭の中でぐるぐると苦しむのが嫌だからです。
とはいえ、子どもや老人、動物に対しては例外です。むしろ母性のような感覚で守りたいと思うことすらあります。彼らが傷つけられる場面を見たら、自分が身代わりになってでも守りたいと思うほどです。
うん、だから見捨てるかもしれない対象にしか湧かない思考だったんですね。
朝起きると、まず警戒心が湧き、油断ならない相手を先に潰そうと考えている自分に気づくことがあります。
この感覚の原因や理由は分かりませんが、今ではを言い訳で思考をぐるぐるさせ埋めたくないと思うようになり、人を対等に見る努力をしています。
対等に見ることは、「どっこいどっこいイズベスト」という思考につながります。どちらかが強すぎたり弱すぎたりしないバランス。
それが一人になったとき、さくっと私の時間として切り替わる、心地よさにつながります。
(犯罪でも高いハードルをクリアするのは、孤独を埋める自傷行為の代替えかもしれません)
私はサイコパスやソシオパスではありません。人に共感したくない、のと、しない、できない人は違います。
そうした行動を取ろうとは思わない臆病な私にはむしろ、自分を「サイコパス」と呼ぶには響きが良すぎるとさえ思います。
私の中の「リサ」と向き合いながら、今はこうして新しい自分を模索しています。