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夜は短し、男も歩け。



6月の中頃、僕は新国立劇場へ、舞台「夜は短し歩けよ乙女」を見に行った。
(本日千穐楽ということで、関わった皆様、本当にお疲れ様でした。)

行くことになったきっかけは、たまたまラジオCMでこの舞台を知ったから。とても好きな作品だったので、即決でチケットを買った。
嘘。即決はしてない。
チケットの値段は、システム手数料含めると約10000円。学生にとっては決して安くない値段だった。少し躊躇したが、これも経験と思って勇気を出して観劇チケットを買った。

結果、大正解だった。
コロナに入ってから中々触れていなかった生の表現のパワーに圧倒され、これでもかというくらい感動した。拙いながら、その感動を文章にしてみた。

①舞台自体の素晴らしさ


第一に、なんといっても主役のお二人が素晴らしすぎた。

まず、黒髪の乙女役の久保史緒里さん。
乃木坂は冠番組をたまに拝見するくらいだったのだが、1発でファンになってしまった。
舞台上での彼女が、あまりにも黒髪の乙女すぎたから。
まず美しくて衣装や雰囲気が似合ってるのは当然のこととして、天真爛漫・好奇心旺盛にして純真無垢という、僕が原作を読んでイメージしていた人物像が、彼女の手によって完璧に再現されていて驚いた。
特に、歌声に合わせて足踏みし、背景の映像が動くミュージカルパートに魅了された。
歌声の伸びやかさはもちろん、時々同じ手足を動かしていたり(故意でもすごいし、無意識なら尚キャラにあってる)、手の振り方も"元気いっぱい!"って感じだったのも相まって、黒髪の乙女という原作のキャラとリンクしすぎていた。
凄すぎて、本当に只々圧倒された。

そして、先輩役の中村壱太郎さん。
原作を読んでいて、何度も彼の演じる"先輩"というキャラに対し、「ごちゃごちゃうるせえなぁ笑」って思っていたのだが、舞台を見ていても同じ気持ちになったのは、中村さんの演技の再現度の高さ故なのだろう。
また、彼が主役だからこそ、所々に歌舞伎を彷彿とさせる演技が入っていたのも面白かった。それがアドリブなのか、本に書いてあったのかは分からないが、そこで垣間見える「役」と「役を演じる彼自身」の間での揺れ動きが、これぞ生の舞台の醍醐味という気がして、ワクワクした。

そして、当然だが、それ以外の役者さんも全員が素晴らしすぎた。
公式のパンフレットを読んでびっくりしたのだが、名前のある役をやっている方でさえ、途中で1人何役も演じていたり、セットチェンジや小道具動かす役などを兼任していたらしい。
演技だけじゃなくて動線の暗記も一筋縄ではなかったであろうことを知り、頭が下がる思いだった。

そして、最初はリアクションの薄かった我々観客たちが、舞台上で輝く役者さん達のエネルギーに絆され、段々と素直に笑い声を発したり、拍手が生まれたりするようになったのが肌感として分かったのもよかった。
印象的なシーンとして、パンツさんへのお見舞いの場面がある。なんてことないシーンなのだが、そこで一斉に温かい笑いが生まれた時、生のグルーヴ感の凄みを体感できた気がした。

初めてにしては、余りにも素晴らしすぎる観劇体験だった。

実は、舞台で演技をしたり、センターで踊ったりした経験が、僕にもある。
無論、規模は比べ物にならないが。
比較するのは余りにも烏滸がましいのだが、素人の僕レベルでは、そんな小規模舞台でさえ、任された役を務め切るのに苦労をしたので、目の前の役者さんたちが、いかに凄いのかを痛感した。

まず、舞台ではセリフを覚えていることが大前提なのに、あの登美彦節の長台詞。それを2.5時間分覚えるのは、相当大変だったに違いない。中村さんは歌舞伎、久保さんは乃木坂など、皆がそれぞれの活動を並行させながら、それを完璧にこなすなんて、本当に凄いと思った。

更に、演技は覚えて終わりじゃない。そこに感情を乗せて、自分の演じるキャラに魂を吹き込まなきゃいけない。そのために稽古を積んで自分にキャラを馴染ませていくのだろうが、プロが本気出すと、原作のキャラ×自分の持ち味の相乗効果で、こんなにも凄まじいエネルギーを生み出せるのか!と、感動をした。

更に、僕が舞台を経験して大変だったのは、衣装チェンジとか、上手下手どっちにはけるとか、色んな段取りも頭に入れておかなきゃいけないこと。僕はリハで一度、衣装チェンジをミスって出トチった経験がある。役に熱中するばかりではなく、冷静に段取りも追わなくてはならないのである。

これら全てをやりきった上で、あんなに伸び伸びとキャラを演じ切る、役者という職業のプロフェッショナルさに脱帽した。

観劇後、もう自分が舞台に立つことは無いんだなぁという寂しさと共に、これからは様々なエンタメを"生"にこだわって鑑賞し、そのエネルギーを浴びることで、日々の活力にしていきたいと思った。

②作品自体の素晴らしさ


次に、作品としての素晴らしさにも改めて気づけた。何故、僕がこの作品が好きだったのかといえば、主人公に自分を重ねていたからなんだと思う。

僕には先日、彼女ができた。
実に観劇の3日前だ。

僕はその子に告白することをずっと渋っていた。
コロナ禍だから、元カノの友達だから、他の女の子に告白をされてその子に申し訳ないから、サークルの人にいじられるのが面倒だから、彼女の元カレとの関係が煩わしくなるから、フラれたら怖いから、就活終わった途端に調子乗ってるって思われるから。
いろんな言い訳に脳が引っ張られて、僕の気持ちにブレーキがかかる。
そして理性的な脳は、様々な邪論を打ち立てて、その状態を是としようとする。

正に、この作品の「先輩」と一緒だ。
でも、作品の中で、彼は気づく。

性欲なり見栄なり流行なり妄想なり阿呆なり、なんと言われても受け容れる。いずれも当たっていよう。だがしかし、あらゆるものを呑み込んで、たとえ行く手に待つのが失恋という奈落であっても、闇雲に跳躍すべき瞬間があるのではないか。
(夜は短し歩けよ乙女 P279)


不覚にも、僕も3日前同じような気持ちになっていた。
「理由つけて逃げんなよ!」って自分に発破をかけて、デートに臨んだ。

そして実際に僕は今、告白が成就し、同じサークルの、天真爛漫な黒髪ショートカットが良く似合う女の子と付き合っている。
なんなんだろう、この縁は。
「縁」をテーマにしたこの作品に、舞台を通して、誠に勝手ながら、僕は強い縁を感じている。

そして、作品の捉え方は人それぞれだと思うが、僕はこんなことを感じた。

タイトルは文字通りの意味もあるのだろうけど、
夜=大学生活だったり、
夜=人生だったり、
様々な解釈が可能だと考えた。

夜は短い。大学生活も短い。人生も短い。
だから、立ち止まってたら、勿体無い。
同じ景色じゃ、つまらない。
歩き出さなきゃ、何も変わらない。


歩き出したことで、失敗してもいい。
パンツを暴漢に奪われても、詭弁を弄するだけで届かない恋になっても、春画のために駆けずり回っても、ゲリラで演劇やっても、それを止める側で四苦八苦しても、突然演劇に乱入して恥かいても、風邪ひいて誰も見舞いに来てくれなくても、結局主人公になれなくても。
それでいい。
それでも、それが自分の人生なんだから。
だけど、時間は短い。
だから、生き急いで色んな経験しよう。
失敗も沢山あるだろうけど、その中に成功とか幸せが紛れてるかもしれないから。


人生は、夜みたいに先行きが見えなくて不安になる。
だけど、びっくりするほどうまい酒とか、天狗を自称する変な人とか、詭弁ばかり弄する意味不明なサークルとか、深いことを言う変態親父とか、ワクワクするような不思議な"縁"にも満ち溢れてる。
そしてその"縁"は時に、未来の恋人とか、素敵な出会いも連れてきてくれる。

だから怖くても歩こう。
黒髪の乙女みたいに元気よく手を振って、見るもの全てに興味を持って、楽しみながら歩こう。
そんな気持ちになった。


僕は、黒髪の乙女に憧れている。
彼女みたいに、嫌味なく自分の好奇心の赴くままに活動できる人間になりたい。
今はまだ、好きな作品や限られた人との縁だけしか大切にできてないけど、これからもっと色んな経験をして、様々な縁をもっと結んで、素晴らしい人生を歩きたいと思う。

だから。
夜は短し、男も歩け。

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