20240829
何かものを書こうと思うと、『徒然草』の序を思い出す。
いかにも京風の自虐を含む序で、素直に読めないからか、なんとも贅沢で羨ましいと感じる。虚しい現代を生きる私には「日くらし」硯に向かう程のゆとりがーー時間においても心においてもーーないからだ。
また、でたらめな記憶力を持ち合わせている私は、随筆という括りで『方丈記』の序も同時に思い出す。
そしてあろうことか、両者をぐちゃぐちゃに混ぜたような理解を生み出してしまう。というのも、同じ有名な随筆であるという共通点に加えて、二つの序にはどちらも「水」に関する表現があるからだ。『方丈記』は言わずもがなだが、『徒然草』のそれは、「うつりゆく」である。これは「浮かんでは消えていく」といった意味合いの語で、そもそも「うつる(映る)」とは、鏡や水面に形を見ることを言う。
そういうわけで、私にとって『徒然草』の「うつりゆくよしなし事」は、泡沫のごとく、「かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためし」がないのである。
しかしこの妙ちくりんな考えは、思考の過程は馬鹿げたものでありながら、あながちおかしなことを言ってないように思う。何か言葉が浮かんできても、硯もといキーボードに向かう頃にはもう忘れている。私の脳の出来が悪いのは勿論として、世の中があまりに忙しなくて、ふと浮かんだ泡沫のようなよしなし事を頭の中にとどめることなどできないのである。
今日も、朝シャワーを浴びているときになかなか大切なことを思いついた。しかし大切な事を思いついた事実は覚えているが、その内容が何だったか、仕事に出る頃にはもうすっかり思い出せなくなっている。
ここまでの雑記だって、一日の終わりに時間を費やして少し書き残しておかなければ明日にはすっかり忘れている、まさに「よしなし事」である。本当なら少しでも早く床に就きたいところを、粘ってみた。由なき事だからこそ消えやすく、それゆえに価値があるような気がしたからである。