2000年
あの時の記憶は今も鮮明に残っている。
2000年、私は当時5才だった。
父の仕事の関係でジンバブエへ3年間住んで、ジンバブエ経済が危うい状況になってしまったので日本へ帰国日を早めて帰ってきた時のこと。
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ジンバブエの話をすると、私は日本で生まれて間もなく、気づいたらジンバブエにいた。
肌の色がみんな違う子供たちと当たり前のように、よく一緒に鬼ごっこをして遊んでいたのを覚えている。
そんな刺激的な毎日を過ごし、日本に帰国後は社宅に住み始めた。
この社宅での出来事は私の人生の中でも大きな出来事の一つで、それが今回話したいこと。
私は、同じ社宅に住んでるワンパクキッズと出会った。
ジンバブエでぐんぐんと育んできた天真爛漫なパワフルガール(私)に、日本版ワンパクキッズは度肝を抜いていた。
私はみんなが度肝を抜いているとは知らずに、ずけずけと英語で話しかけ出した。
それが唯一知っている言葉だから。
もちろん、4,5歳のワンパクキッズは、英語なんて意味不明だ。
彼らに私がつけられたあだ名は「エイリアン」。
私は自分が他の子供達から軽蔑されているとは思っていなかった。
ジンバブエにいた頃は、人と違うことが当たり前だったから。
違う肌の色、違う性格、違う考え方。
自分がどれくらいその違いを理解していたかは別として、
金子みすゞさんの言葉を拝借すれば、「みんな違ってみんないい」が自分の根底にあった。
だから、エイリアンと言われても、それって悪いことなの?と思って堂々としていた。
しかし、ワンパクキッズは私が堂々とすればするほど、気に食わなかったのだろう。
彼らはいつの間にか、「いじめっこキッズ」に進化していた。
そして、私へのいじめが日に日にエスカレートしていった。
バカ、アホ、シネと言われるのはまだかわいい方で、一番ひどかったのは無理やり倉庫に閉じ込められ、夜親が探し出すまでずっと一人で真っ暗な倉庫の中に過ごしたこともある。
やられ続ける私の仲間になってくれる子はいなかった。
みんなを見てないふりをして、いじめは終わりが見えない。
でも、今思うと、よく私はあの時引きこもったり、性格を拗らせたりしなかったな。
当時の私は、このいじめの屈辱を彼らにやり返すのではなく、違う形でいつか晴らそうと思っていた。
バカバカ言われ続けるのが悔しかったから、馬鹿って言われないよう猛勉強した。
仲間を増やすために、みんなに優しく平等に接した。
そして私はいつか有名になってテレビに出て、いじめっ子キッズを見返そうと決めたのだ。
ps 写真はパワフルガールの形成に一役買ったジンバブエの写真。勇逸のアジアンガール(私)が先頭で白人の親友と肩を組んでいる。当時から目立つのが好きな性格だったのがうかがえる。
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