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世界一周で残る作品と出合う

今回は、インターネットとの出合い、そしてアーティストとしての目覚めについて振り返る。


思い返せば、子どものころから絵を描くのが好きだった。
小学生の時はプラモデル、鉄道模型、高校生のときも、乗っていたバイクに自分で色を塗ったりして創作的に遊んでいた。
工業製品にも興味があり、プロダクトデザインを学べる美大を受験した。

結果は、不合格。
しかも、高校に3年間通ったにもかかわらず、なんと単位が足りず高校を卒業できなかった。
2つの大きな失敗が重なって落ち込んだぼくは、家にひきこもってしまった。

そんな生活が1年続くと、廃人になってしまう自信があったのと、さすがに親に「そろそろ家を出なさい」と促され、20歳のときに美大に入学し、一人暮らしを始めた。

初めてのインターネットとCG

念願のキャンパスライフ。
…と思いきや、大学にはあまり行かず、代わりに夢中になっていたのは、インターネットの世界。

当時はインターネットが一般家庭にも普及しはじめたころで、新しいものが好きなぼくはインターネットがたくさんできそうなネットカフェでバイトをすることに。

ネットカフェと言っても現在のような形態ではなく、Appleのマッキントッシュが3台だけ置いてあるおしゃれなお店で、よく雑誌などの取材も来ていた。

ぼくはその取材対応や、お客さんにマックの操作方法を教えたりして、空いた時間にネットサーフィンをしたりAdobeでデザインをしてみたり。マックを使って遊んでいただけだが、のちにデザイナーになる芽がこのころに育っていたと思う。

その後、ネットカフェが吉祥寺パルコから渋谷は宇田川町のディスクユニオンのビルへ移転するも、あまり利用者がいなかったため閉店。

仕事を失った(笑)ぼくは、ネットカフェを共同運営していた2社のうち1社に関心を持った。
それは映像プロダクションで、NHK番組のCG制作や、坂本龍一さんのコンサート映像、PlayStationのゲームのCGグラフィックなどを作っている会社だった。

まだCGも黎明期で、これは面白そうだ!と、募集もしていなかったのに役員の方に強引にお願いして、バイトとして雇ってもらえた。とはいえ、CGに関しては知識も経験もないため、スタッフの方たちに「何かやることありませんか?」と聞いてまわって、お手伝いをしていた。

みんな泊まり込みで夜中まで働いていて、ぼくも一緒に会社に泊まり、ときには社内でバーを開いたりして、業務以外でサポートしていた。忙しくも楽しく働いていたが、2年ほど経ったあるとき、その会社で一番のCGアーティストが独立することになった。
その人にはお世話になったし、彼についていくという選択肢もあったが、ぼくは海外に行くことにした。

というのも、世界遺産などのCG制作を手伝うなかで、ぼくは一度も海外に行ったこともないし、実物を見てみたい!と思い立ったが吉日、すぐさま海外へ旅立った。
1998年、24歳のときだった。

言葉の代わりに、絵で伝える旅

調べてみると、大阪から上海まで、船で19,000円で行けることがわかった。これは安い。飛行機は乗ったことがないからちょっと怖いし、船で上海に行こう、と決める。

読者のみなさんはすでにお気づきかと思いますが、ぼくは影響されやすいタイプでして、このときはテレビ番組に影響を受け、ヒッチハイクをやってみたい!と東京は東名の用賀インターからヒッチハイクに挑戦。

ラッキーなことに、2台のトラックを乗り継いで、目的地の大阪南港まで行くことができた。(あのとき乗せてくださった大型トラックの運転手の方、ありがとうございました!)

無事に上海に着いたあとは、大好きだったテレビ番組『世界の車窓から』で観たシベリア鉄道に乗ってみたかったので、ウランバートル(モンゴル)から念願のシベリア鉄道でモスクワ(ロシア)へ。

おそらくウランバートルにて
シベリア鉄道からの景色

その後も興味の赴くまま、モスクワから高速鉄道でドイツへ向かうも、その途中、ビザが必要な国を通過する際に、ビザを持っていなかったため国境警察に「荷物を持って降りろ」と言われ、そのまま牢屋に入れられてしまった。

翌日には出れたが、モスクワに戻され、どうしてもヨーロッパに行きたかったぼくはまたドイツ行きの列車に乗りなおしたが、同じ結果に..。

警官が話している言葉は何語かわからず、英語も通じなかったので、絵を描いて「ビザはどこで手に入るのか」と聞き、なんとかビザを取得して、ドイツにたどり着くことができた。

ほかにも言語の代わりに絵などで伝える機会は多く、非言語でのやりとり、思い通りにいかないという経験はその後の人生に大きな影響を与えた。

東欧では車掌さんにタバコをあげたら、運転席に乗せてくれた。笑

作家がいなくなっても、作品は残る

もう一つ、印象的だったのは、ヨーロッパをまわっていたときのこと。
イタリア、フランス、スペインなど、ヨーロッパには街中に100年以上も前からある建物がたくさん残っていて、また街のいたるところに彫刻物があった。

ヨーロッパでは生活圏内に、彫刻物が空気のように存在している

そうした作品にももちろん感動したが、「作家は死んでも、作品は残っている」ということに異様にドキドキした。
そして、自分もいろんな人に影響を与えられるような、ずっと残るものを作りたい、と思った。いつか自分がいなくなっても、生きていた証を残せるように感じたから。
もしかしたら「OSIRO」はぼくにとって、後世に残る作品のような存在なのかもしれない。

ドイツにて。現代アートも街の一部として溶け込んでいる

気がつけばロンドンの友人宅まで陸路でたどり着いた。友人が通うロンドンの美大も見学させてもらった。
芸術への興奮と尊敬を胸に、生まれて初めての飛行機でカナダへ。
そこからニューヨーク、ニューオリンズ、ロサンゼルスとアメリカ大陸を横断し、ロサンゼルスでは世界的に活躍するトップデザイナーを多く輩出している美大を見学した。

ここカリフォルニア・パサデナでデザイナーとしての最高峰の教育を受けるのもよさそうだなと思ったが、1分でも遅刻したら授業を受けられないほど時間に厳しいと聞き、断念した。なぜか決まった時間に決まった場所に行くことができなかったぼくには、遅刻せずに通う自信がなかった。

なお、「天命を受けてはじまった事業」で書いたように天命を受けてからは、決まった時間に決まった場所に行くことができるようになったことは、自分でも不思議だ。

ヨーロッパは駅の建物も特徴的で古いものが残っていた

こうして3ヶ月ほど世界を旅するなかで、世界中の人とコミュニケーションをとりながら、主要な建築や美術館、ギャラリーを通じてたくさんのアートに触れた。
自分の目で見たものしか信じることができなかったので、このときの経験はいまも大きな財産となっている。

そして心からやりたいと思うこと、絵を描くことを職業にしようと、帰国してアーティスト活動を開始した。
こうして日本に帰ってから絵を描くようになったけれど…続きはまた次回。いよいよOSIROの開発へ。


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