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きたやまおさむ著『むなしさの味わい方』
妙なタイトルだな、と思った。
「むなしさ」は味わうものなのか
その問いは、この本を予約し、手元に届くまでの4,5日間、
私の胸から離れなかった。
タイトルに引っ張られて本を買ったわけではない。
きたやまおさむさんはかつて「帰ってきたヨッパライ」という、なんとも変てこりんな曲で一世を風靡した「フォーク・クルセダーズ」のメンバーであり、作詞家だ。
私は、彼が作る曲の、特にその歌詞に強く惹かれていたのだ。
だから、新聞の読書欄でこの本が紹介されているのを目にし、
すぐに買って読もうと思った。
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北山さんは作詞家であると同時に精神分析学を専門とする精神科医でもある。
本の内容は深層心理学あり、神話学あり、「心の装置図」あり、と多彩で多岐にわたり、その中に作詞家として、また精神科医としての体験が語られたりする。
「序章」の最後の3行を引用すると
私たちは「むなしさ」に吞み込まれるのではなく、かといって「むなしさ」を消してしまおうとするのでもなく、できればこれを味わいながら観察していくことにしましょう。そんな方法論で、本書を進めていきます。
「むなしさ」を味わいながら観察していく……
「味わう」と「むなしさ」との間には、あまりにも深い河がある。と、思うのだけれどー
読みすすめていくと、
「悲しくてやりきれない」という曲が登場する。
「悲しくてやりきれない」(サトウハチロー作詞、加藤和彦作曲)
胸にしみる空のかがやき
今日も遠くながめ涙をながす
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
このやるせないモヤモヤを
だれかに告げようか
白い雲は流れ流れて
今日も夢はもつれわびしくゆれる
悲しくて悲しくて
とてもやりきれない
この限りないむなしさの
救いはないだろうか
この歌の二番で「むなしさ」という感覚を歌っています。しかし、サトウハチローさんの詩に「救いはないだろうか」とある通り、歌ってみたところで、その思いはなかなか救われないものなのです。ここが「むなしさ」の難しいところで、メロディを付けて歌い上げても、結局、その思いはどうしようもないのです。
「むなしさ」というものは、救いがないものであり、どうすることもできず、取り返しがつかないものなのです。
その「仕方のないこと」もまた、「むなしさ」につながる。
からっぽであり、実態として何もないので、それを捕まえてどうにかしようとする試みさえ無駄になってしまいます。
だから、「むなしさ」はさらに深まっていく。
うーん。
読めば読むほど、もやもやとした思いが募る。
救いようのない「むなしさ」を、どうやって味わおうというのか。
最終章
自死した「盟友」とのことが語られる。
加藤和彦と私がともにフォーク・クルセダーズで活動した後、一緒に作った「あの素晴らしい愛をもう一度」という歌。
同じステージに私と並び立って、この愛を歌っていた加藤和彦は自死しました。今でも皆さんから、精神科医の私が傍にいながら、どうしてこれを止めることができなかったのかと問われるのです。
(中略)
私は彼を見殺しにしたのでしょうか。ここに、いつまでもすむことのない「すまない」がどうしても残るのです。
かつて心が通い合っていた彼とつくったあの歌は、結局のところ、その後の彼との関係を歌っていたというわけです。そういうわけで、あの歌は私たちの愛の物語なのです。
いつまでもすまないので、これについて書く度に、広い荒野にぽつんといるようで、最後には深刻な「むなしさ」を感じさせられるのです。
どっちにしても、自死した彼との「あの素晴らしい愛」の再生は絶対にないので、その取り返しのつかない喪失は味わうしかないのです。それはぽっかりあいた心の穴です。
ここに至り、ようやく気づく。
これは、北山修が加藤和彦へ差し出した恋文なのだと。
取り返しのつかない喪失(むなしさ)はもう、開き直り、味わっていくしかないのだろう
今を生きる者として
(一部修正しました)2024.5.4