フィードバックと追思考。「数学ではじっくり考えて思考力を養うべきだ」という言説に対しての考えとか。
以下のツイートに関することを書こうと思う。
僕はあまり共感を狙ってツイートするタイプではないのだが、珍しく結構リツイートされたのでこれに関する考えを少し掘り下げて書こうと思う。
解答を読んだからといって必ず自立して学習ができるわけではないが、解答を読ませなかったら、自立して学習できるようにはならない。
今回のツイート、賛否両論あり、どちらにも共感できた。
反論に多かったのは「解答を与えたら、写して終わりになる」というもの。確かにそういう子もいるだろう。
また、「分からなかったらすぐに答えを見る、という風にすると、思考力が身に付かない」というのもあった。
共感できる。
実際、僕の目の前にも「答えを写して終わり」の子と、「解法を丸暗記して数学の点数を上げようとする子」は沢山いるからだ。
ただ、共感しまくった上でいうと、元のツイートを読んだら分かると思うのだが、今回の僕の要旨は
①生徒が自立して学習するためには
②解答を読むことが必要で
③「解答を見るな」という指導(解答を配らない」をしていたら、自立できない
ということなのである。
よろしいだろうか。
数学的な言葉で言えば、「自立して学習するための必要条件」の話をしただけであり、「こうすれば自立する」という「十分条件」として主張しているわけでは全くないのである。
「解答を与える」とか、「解答を読むようにする」というのは、自立した学習者になるまでの道中の1%くらいのところであり、その先の部分には触れていないのである。
ただ1つ僕が言いたいのは、「解答を読ませない・与えない」という環境では、子どもが自立して学ぶようにはなれない、ということである。
小学校の先生で熱心に反論を重ねてくださった方がいて、確かに小学校低学年の子全員を自立させるのは難しい部分が大いにあるだろうと思った。それはわかるが、やはり指導によっては出来るようになる子もいるわけで、そういう可能性があるのであれば、まずは解答を配って解答を使って自分で学ぶ方法を教え、できない子にフォローを入れていく、という方がいいのではないかと考えた。可能性がある子がいるのに、全員一律に解答を与えない指導をするのはどうなのだろうか、と。ここらへんは教育観の違いもあるのだと思うが。
ただ「日常生活で自立していない子は、やっぱり学習でも自立させるのは難しい」というのは確かだと思う。
解答を読み、追思考をする
「解答を読む」ということについて、もう少し考えてみる。
解答を読むにしても、以下に列挙するように、様々な段階があるように思う。
①解答を写して終わる
②解答を読み、解答の文章・書き方を覚える
③解答を読み、問題と解答の対応パターンを覚える
④解答を読み、意味・思考の流れを理解する
⑤解答を読み、意味を理解し、思考の流れを追体験する【追思考】
僕が「解答を読む」という行為で行ってほしいのは、もちろん⑤である。
「追思考」という聞きなれない言葉だが、数学において追思考というのは極めて重要で有効な学び方だと僕は考えている。
追思考とは、なんのことはない、「人の思考のプロセスを辿り、その思考を自分も体験する」ということだ。これにより、他人の思考プロセスを自分のものとし、その後に自分の思考のレパートリーに加えることができるのだ。
これは数学だけに限らないのだが、学問を学ぶというのは、要は「自分では思いもよらないような思考のプロセスを他人から拝借し、自分の思考の手段を増やしていく」ということなのだという僕の勝手な解釈に依っている。
「数学ではじっくり考えて思考力を養うべきだ」という主張に対しての僕の考え。
ここで、算数数学教育界でよく議論にのぼる、「数学ではじっくり考えて思考力を養うべきだ」という言説について、僕の個人的な見解を示しておきたい。
初めに結論から言うと、「じっくり考えることで育つ力もあるし、じっくり考えずとも育つ力もある。時と場合と人による。」という考えだ。
なぜかというと、『「思考力」というものが「じっくり考える(ようにみえる)」ことで向上する、』という前提が疑わしいからである。これは、思考力の定義にも関わる話だが、そもそも「漠然とした”考える力”なるものが存在するのかどうか」ということである。思うに、思考が深い人というのは、「思考力」という抽象的な力が高い人ではなく、「知識の多さ」や「イメージの豊かさ」がある人ではないだろうか。
ものっすごく極端な例で話をする。
①小学生のA君に「ミレニアム問題」を与えて、その1問だけを1週間じっくり考えさせる。
②A君に、その子が持っている知識で頑張れば解けそうな問題を用意し、解けたら次の問題を解き、解けなかったら答えと考え方を教え、次の問題を解く。これを1週間行う。
①と②で、どちらのほうがA君が力をつけるかと考えたら、僕ならば②だと思う。しかし、「じっくり考えて思考力が育つ」という人にとっては①なのだと思う。「見えない部分が鍛えられている」と言うと思う。
僕は、「じっくり考える」ということを否定しているわけではない。
じっくり考えるためには、前提となる知識がある程度必要だということを言いたいのである。
ある問題があって、その問題を解くための知識が足りない子にじっくり考えさせることは、思考力を育てるどころか、「考えてもどうせわからない」という学習性無力感を感じさせ、「考えることが嫌い」という子にしてしまう可能性があると僕は考えている。
その子に前提知識があり、がんばれば解けるという問題であれば、じっくり考えさせたほうが良いというのが僕の考えである。
ちなみに。蛇足になるが、数学界のノーベル賞であるフィールズ賞を獲得した小平邦彦先生は、著書において以下のように語っている。
数学の学び方として挙げることができたのは、結局、わからない証明は繰り返しノートに写してみること、別証を考えること、定理をいろいろな問題に応用してみること、という誠に平凡なことばかりである。
幾何に王道なし (ユークリッド) というが,数学に王道なしということであろう。 (『新・数学の学び方』)
世界的に著名な数学者が、「ノートに写す」という勉強法を説いているわけである。理解するというより、何度もノートに証明を書き、暗記したということを書いているのである。僕はこれを読み意外過ぎて驚いた。
また、小平先生は以下のようなことも書いている。
現在の算数では計算の意味を教える。たとえば分数の割り算 (式略) について、なぜ 4/5 で割るには分子と分母を入れ換えた 5/4 を掛ければよいのか、
そのわけを説明しようとする。
私が習った算術ではこういう説明はなく、分数で割るときには分子と分母を入れ換えて掛ければよい、という規則だけを習い、あとは計算練習を繰り返しているうちにその意味は何となくわかってきたと記憶している。
意味がわかった、というのはなぜ分数で割るときには分子と分母を入れ換えて掛ければよいかという理由を説明できるようになったということではなく、分数の計算とその応用が自由自在にできるようになったという意味である。 (『新・数学の学び方』)
これで僕の数学観はかなり変わった。小平先生側に傾いたというわけではなく、「あまりこだわらなくなった」ということだ。
「数学力を磨くには○○が絶対的によい」というようなものはなく、その場その場で異なる学び方をすることもあってよいのだという考え方になった。
さて、数学に関することはここまでにし、そろそろ学習におけるフィードバックの重要性に話を移す。
フィードバックは学習に不可欠
学習、というのは、何かしらの知識を身につけたり、技能を身につけたりすることだ。これは、学校の勉強だけに限らず、スポーツの場面でも、仕事の場面でも共通して言えることだと思う。
その時に必ず必要となるのがフィードバックである。
端的にいえば、フィードバックがなければ、学習すべき箇所がわからず、学習を始められないということである。
勉強において、問題を解いてみて、「自分の解答が合っていたかどうかを確かめる」というのがフィードバックを得るということだ。問題を解いて答え合わせをしないのに、学習ができるわけがない。もちろんこれだけに限らない。テストの点数自体が「あなたはこれくらいの到達度ですよ」というフィードバックでもあるし、先生からの「これは違うよ」というのもフィードバックである。それがあるから、「改善の必要性」を自覚し、学習が始まるのである。
スポーツの世界でもフィードバックが必要だ。試合に負けるというのもフィードバックであるし、練習中にコーチに思ったような動きができていないことを伝えられるのもフィードバックである。
よって、「問題集の答えを与えない」というのが、いかに子どもの学習に対して思慮を欠いた行為かということがわかると思う。
宿題をやった翌日に先生が丸付けをしたとしても、前日の宿題をやっている時に多くの問題に対して誤った計算方法で計算が行われているわけで、そうすると脳はそれを定着させてしまうのである。
フィードバックは早ければ早いほどよい、というのは鉄則だと思う。
長々といらんことも書いたが、解答・解説を子どもに持たせることは、学習サイクルを回すための大大大前提だと僕は思うのである。