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ワークライフバランスという考え方、「好きなことを仕事にする」という考え方
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「ワークライフバランス」という言葉の前提にあるもの。
それは、上の天秤の絵のような関係性だ。
「仕事」と「人生」は二律背反?????
仕事と人生のバランスを、という、「ワークライフバランス」という言葉。
バランス。
バランスをとる、というのは、いわゆる二律背反の関係を持っているということだ。しかし、「仕事」と「人生」が二律背反の関係だということに、僕はピンとこない。
僕にとって、今の教員という仕事は、今のところ基本的に「楽しい」ものであるし、「面白い」と毎日感じている。
おそらく、「ワークライフバランス」という言葉の根には、「仕事は生活のためのもの」「生活するために仕方なくやるもの」という思想があるのだと思う。
しかし、本当だろうか?
仕事は苦役であり、生活に必要だから仕方なくやっているのだろうか?
そういう労働観もあるだろうし、僕はそれを否定しない。そういう方々もいるのは確かだし、それで幸せなのであれば、仕事と人生のバランスを取る生活を続けていってほしい。
仕事って、人生の大部分を占めるやん?
僕にとって、仕事というのは↓のようなイメージだ。
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人生の一部。
決して天秤の関係じゃない。
こっちの図で考えると、やっぱり仕事は人生の一部分(もしかしたら大部分)を占めている。人生の円に対して、仕事の円の大きさが適切かはわからないし、人によって違うだろうけども、シンプルに時間で見ると、働いている時間というのは人生においてかなり長い時間になるはずだ。
「仕事」は「人生」に内包されている。
あれや。「人生」が鍋だったら、「仕事」という具材は豆腐くらいの存在感、というイメージだ。豆腐大事。
そんな大切な豆腐が腐っていたら、そりゃ鍋自体がおいしくなくなりますな。それはそうだ。だから、その豆腐自体を小さくして、できるだけ片隅に寄せよう、というのがワークライフバランスという考え方のような気もします。
しかし、豆腐を美味しくすれば、多少大きいくらいでも鍋自体は美味しいままなはずだ。そりゃ、大きすぎたら他の具材が入る余地はなくなってしまうけど(僕はそれでもいいんだけど)。
つまり、重要なのは、「仕事」をどれだけ美味しく、楽しく充実した時間にできるか、ということ。
仕事が楽しくなれば、多少労働時間が長くなったとしても、心身のバランスは崩れない。
「好きなこと」「好きなもの」を仕事にすればいい?
仕事が楽しい、面白いというのであれば、確かに人生が楽しくなる。
だから、最近よく言われるのは「好きなことを仕事にしろ」というやつだ。
そういう本も何冊も出てる。
そういう本に対して言いたいことがある。
「そんなん、できるんだったらみんなやってるよバーカ!!!」
これだ。
好きなことを仕事にできれば、そりゃ仕事は楽しい。誰だってそうしたい。でも、ほとんどの人はそうじゃないだろう。
好きなことを仕事にできないのには幾つか理由があるが、
①そもそも自分の好きなことを知らない、それほど好きなことがない。
②好きなことはあるが、それを仕事にするほどの熱量はない。
③好きなことはあるが、それを仕事にするための方法が分からない。
④好きなことがあり、仕事にするためのステップもイメージできているが、挑戦に踏み切れない。
多くの人はこれらのうちのどれかに入るだろう。
③や④はいいんだよ。勝手にいろいろやっていけば、なんか楽しくなるだろう。(おい)
しかし、実は多くの人が①や②に入ると思っている。
例えば。
今、うちのクラスに「eスポーツで世界一になります」というゲーム大好き男子がいる。覚悟を聞き、僕が「お前は宿題出さんでよろしい」という許可を出した男だ。クラスのみんなにも伝え、応援している。
その男子の父親に話を聞いた。かなり厳しいお父さんだったが、「おうちではどんな様子ですか?」と尋ねると、
「正直、”そこまでやるの?”ってくらいやってます。ゲームをやっているのではなく、”練習”をやっています。こういう人生もあるのかな、と思っています。」
ということだった。その男子は、自分の行動によって、熱量を父親に伝え、自分の生き方を納得させていた。現在ではアジアで上位1%に入っているらしい。
eスポーツの世界は厳しい。当然と言えば当然だが、普通に中高生がゲームに興じているのとはわけが違う。単純にプレイし続けるのではなく、プレイした自分を振り返り、「あそこの動きが悪かった」「あの時、判断を誤った」「あの立ち回りのおかげで優位に立てた」といったフィードバックを自分で行い、それを次回に生かす。身体が反射で反応して動けるようにするために、同じ状況を作って何度も反復練習するようだ。まさに「PDCA」だ。
さて、問題は、「ここまで情熱を注げる”好き度”の人間は、果たしてどれくらいいるのか」ということだ。
おそらく、そんなに多くないだろう。
おそらくだが、こういう風にゲームをプレイするには、ある程度の「能力」が必要だ。自己省察、運動神経、反射神経、動体視力、などなど。誰もがここまでいけるわけじゃない。
つまり、「好き」を仕事にできるレベルの「好き」には、その分野で秀でる一定以上の「能力」が必要になる、ということだ。
大切なのは、まず「楽しい」と決めること。そして一度はやり込むこと。
そうなると、そこまでの能力がない人にとっては、目の前にある仕事をいかに楽しめるか、面白みを発見できるか、ということになる。
どうしたらそうなるか。
①「楽しい」と口に出し、まずその仕事が楽しいと規定する。
→②一定期間、とにかく本気でやり込む。
→③面白さがわかってくる。
→④でも、自分が本気でしんどくて病気になりそうだったら辞める。
これだと考えている。
①について。
やっぱり物事はまず自分の持っている「意識」から始まる。
「楽しい仕事はない、楽しそうに仕事をする人ならいる」という誰かの言葉通りだと思う。
人は、自分が口にした言葉通りの未来を引き寄せる。というのは、「認知的不協和」という心理が働くからだ。「楽しい」と言葉に出すことによって、脳は楽しい部分を探す方向に働く。
②、③について。
物事というのは、本気でやり始めないと、本当の楽しさはわからない。つまらなく思えることでも、「とことんやるぞ」という姿勢でやると、段々楽しさがわかってくる可能性がある。ここは勉強も同じ。
逆に、「これ面白そう」と思って何かを始めたとしても、少しの困難にぶつかるとすぐに投げ出してしまう人もいる。こういう人は、なかなかに厳しい。何か好きそうなものを見つけては、困難に出会ってすぐに方向転換、という感じで、同じところをぐるぐる回ることになる。
④について。
うん。健康大事。やっぱりこれが一番。病気になるというレベルは、今のあなたには向いていないということ。別にあなたが悪いわけではないし、弱いわけでもない。別の環境があなたを待ってるよ。
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結局、上の①~③の手順と言うのは、この図でいうとAのゾーンを広げている感じだ。
「好きなこと」を仕事にできている人というのは、わりと最初から「好き」の円と「仕事」の円が重なっている人だ。
しかし、ほとんどの人はそうではないから、自分で工夫してAゾーンを広げる努力をする必要がある。もちろん、「好きなこと」を仕事にしている人も努力はしているんだが、その努力を努力と感じていないことも多々ある。
そういう一部の「選ばれし者」と同じルートを自分も辿れると思ってしまうと苦しくなることがある。
仕事の攻略を試みることで、自分自身が磨かれる
もちろん、上の図でいうCゾーンの仕事もあります。これはどんな仕事にも少しはあるはず。そこは誰しも割り切ってやっている。
問題はAゾーンを広げる努力をするかどうか。
我々凡人は、
「仕事」の中の「好きなこと」を見つける。
「仕事」の中の「好きなこと」を増やし、広げる。
「仕事」の中の「好きなこと」を創る。
「仕事」を支配する。
といったことを通して、仕事を充実したものに変えていくことができるかもしれない。そして、その営みを通じて、自分自身を見つめ直したり、振り返ったりして、自分が磨かれていくかもしれないよ、というお話。
僕の独断と偏見に満ちた文章。信じなくていいやつ。
まぁでも、普通に仕事を作業労働とみなして生きる人生も、全然アリだ。