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イブキちゃんの聖書入門#77 「本当のクリスマス(前編)」

"さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」"
ルカの福音書 2章8~12節

☆クリスチャンになってまだ間もなかった頃、アメリカ人宣教師のお宅のクリスマス会に呼ばれて『A Charlie Brown Christmas(邦題:スヌーピーのメリークリスマス)』というアニメを鑑賞したことがあります。

詳細はうろ覚えですが、仲間たちがクリスマスをただのパーティとして捉えていて、「それは違うだろ」と憂鬱な気分になっていたチャーリー・ブラウンが、クリスマスの本当の意味を考える、というようなストーリーだったと思います。

『A Charlie Brown Christmas』は恐らく1965年辺りに作成されたものだと思いますが、その当時のアメリカは、まだ一般メディアでも保守的な聖書的価値観を訴える力が強く残っていて、「クリスマスの祝福を伝えたい」という熱意をそこから確かに感じ取ることが出来ました。

そのメッセージに見習い、今回はクリスマスシーズンということもあり、「クリスマスの本当の意味」について、前後半に分けてお伝えしてみたいと思います。

☆冒頭でご紹介した聖書箇所は、夜番をしていた羊飼いたちに天使たちがキリスト(メシア)の誕生を告げ知らせる場面です。

ここでの主役(注目すべき人物)は「羊飼いたち」です。

羊飼いたちはこの時代、2,000年前のユダヤ人社会においては地位が低い職業の人々だと見なされていました。

それは、

1:羊飼いは休みのない仕事であり、ユダヤ教パリサイ派が最重要視していた「安息日の律法」を守ることが出来ないから

2:「安息日の律法」を守れないとなると、ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)で他者と一緒に礼拝に加わる機会も極めて少なく、必然的にコミュニティから宗教的に疎外されるから

3:いつも羊と一緒におり、獣臭いから

などが挙げられます。

そのような理由から、羊飼いたちは、実際には人格的に誠実で純朴な人間も多かったとは思われますが、ユダヤ教の宗教的指導者たちからは「律法に無知」「噓つき」「盗人」「穢れている」などと蔑まれていました。

つまり羊飼いたちは、取税人や遊女たちと同じく、当時のユダヤ人コミュニティにおいては除け者扱いを受けていた「社会的弱者」であったのです。

その羊飼いたちが多く集っていた場所が、この8節にある「その地方」でした。

"さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。"
ルカの福音書 2章8節

☆ここでの「その地方」とは、ベツレヘムという町の近郊を指しています。

"ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。"
ルカの福音書 2章4節

ベツレヘム(ヘブライ語で「パンの家」)という名の町は、聖書時代の中東カナンの地に2つありました。

1つはゼブルン族の領地にあった、イエス・キリストの育ったナザレという村から北西11キロ程のところに位置していた小さな村です。

もう1つはユダ族の領地にあったベツレヘムで、エルサレムから南に約8キロの「ユダの山地」と呼ばれる場所に位置していた町であり、ここでの「ベツレヘム」はこの後者のベツレヘムです。

キリストが降誕される約700年前に書かれた旧約聖書の「ミカ書」では、この「ユダのベツレヘム(ベツレヘム・エフラテ)」でメシア(キリスト)が誕生されると預言されています。

"「ベツレヘム・エフラテよ、あなたはユダの氏族の中で、あまりにも小さい。だが、あなたからわたしのためにイスラエルを治める者が出る。その出現は昔から、永遠の昔から定まっている。」"
ミカ書 5章2節

この「ユダのベツレヘム」の近郊は丘陵地にある牧畜に適した地であり、よってこの聖書時代には羊飼いたちの「職場」となっていました。

ちなみに、エルサレムと近いということもあり、もしかしたらそこで羊を飼う羊飼いたちはユダヤ教の大切な祭りである「過越しの祭り」で捧げられる小羊を飼っていた可能性もあります。

だとすれば、「最後の小羊」として過越しの祭りの最中に十字架につけられて全人類の罪の贖いを成し遂げられたイエス・キリストは、その始まり(降誕)に関しても「過越しの祭りで屠られる小羊」に紐付けられていることになります。

誕生から既に死の予表(フラグ)が立てられている、ということです。

あくまでそのような考察は可能性に過ぎませんが、ある種の神によるアイロニーを見るようで面白味があることは確かです(勿論、それが行き過ぎると聖書から脱線して危険なのですが)。

☆ここでのメッセージで一番大切なことは、「人々の注目の外にいる弱き者・小さき者に神の目が注がれた」ということです。

イスラエルには12の支族があります。

ユダ族はそのイスラエル12支族の中で最も人数が多い強大な部族です。

何よりも神殿のあるエルサレムというイスラエルの中で最も栄えた都市を擁しており、宗教的にも経済的にもユダ族は全イスラエルの中心でした。

しかしそのようなユダ族の都市の中で、「ユダのベツレヘム」は田舎であり、ミカ書で言及された通りに「小さなもの」でした。

「ユダのベツレヘム」も羊飼いたち同様に「弱者」であったのです。

その「取るに足りない小さな者」に、旧約聖書(ユダヤ教的にはヘブライ語聖書)で繰り返し、長い年月をかけて約束され続けていたメシアの降誕が告げ知らされました。

天使が現れたのは、エルサレムに住む地位の高い宗教的指導者たちに対してではないのです。

小さな町の郊外を舞台に、見下げられていた人々である羊飼いたちに、天使は全人類の救い主であるキリストの降誕を告知したのです。

☆私はここに、聖書が明らかに啓示されている真の神のアイロニーがあると思います。

聖書の神は愛と恵みに富んでおられ、虐げられている者を憐み持ち上げられ、逆に虐げる者を引き下ろされるお方です。

それはイエスの母、マリアがイエス懐妊中に詠った歌(マリアの賛歌)の中にも表されています。

"主はその御腕で力強いわざを行い、心の思いの高ぶる者を追い散らされました。
権力のある者を王位から引き降ろし、低い者を高く引き上げられました。
飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせずに追い返されました。"
ルカの福音書 1章51~53節

☆この神のご性質は全て、神ご自身であるイエス・キリストによって見える形で体現されています。

キリストはその公生涯で徹底的に弱者を憐み、奢り高ぶる者のその心の闇を明らかにされました。

しかし、神にとって人間世界における弱者も強者も全てが等しく罪人であり、愛の対象です。

神が奢る強者を打ち砕く時は、それは謙虚であることの大切さを学ばさせる為であり、憎くて罰する為ではありません。

神は全ての者を救いたい、永遠のいのちを与えたいと願われているのです。

その為には、「自分は神の前では無力な人間だ、自力救済は出来ない罪人なのだ」という健康的なへりくだりが必要なのです。

どうか今、あなたもこの聖書の神の前で「小さな者」となり、唯一の罪からの解放の道である「イエス・キリストの福音」を心から信じてみませんか。

ここに神からの最高のクリスマスプレゼントがあります。

神を必要としない人間など、一人もいません。

※次回「本当のクリスマス(後編)」へ続きます。

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