宣告から13日目:常識とは
今回父親が瀕死の状態となり、死についてとても考える機会を与えられた。
そして、私たち、私はこれまでどれだけ常識というものに縛られ、それ通りに生き、ほかの可能性を考えたとしても信じることが薄かったのかを知ったのだ。
常識から外れた考えや概念、価値観を発信すると否定・非難を受ける。
これはほとんど当たり前のことで、それをどうこうしたいわけではない。
しかし、自分もそれでいていいのか。
現実逃避とかとはまた違う次元の話である。
現実はしかりとみる。逃げずに受け止める。
そして、そこからどう考えるかは完全に自由意思によるのだ。
しかし、そこに一般的な判断や考え方、これまでのデータや観測に従った未来予想がじゃんじゃん降り注がれ、自分の深いところにある神聖を邪魔する。
「これを信じなさい。なぜならそれが最も正しいからだ。」
という専門家や偉大な人の意見に染められる。
そもそも常識とは何なのか。
そこから抜け出す方法はないのか。
常識とは、人がそうだとずっと信じ続け、受け継がれ、疑いの余地もなくそれが当たり前とされていることであろう。長く、多くそれが伝わると「常識」というものが出来上がる。
常識を逸するとは?
その考え方を一切すて、自分の魂の声に耳を傾けること、人知や化学を超えた大きな力を感じ、それを受けて築き上げる自分なりの概念・価値観・行動。
それを人はキセキと呼ぶ。
正直、私の心は今少しだけ彷徨ってもいる。
何が正しいのか、
何を信じればいいのか、
どういう覚悟と未来を創造するのが自分と周りにとって最もいいのか
そういうものがまだ定まりきらず、揺れている。
ただ、ひらめきを大事にしよう。
それは思った。
最近は殆ど直感で行動を起こしている。
それはとてもとても小さな行動かもしれない。
でも思いは確かに魂から来ているもので、私の肉体は動かされている。
お墓参りに行こう、先祖様にあいさつと感謝を述べよう
今日は病院に行こう。ただ私の存在をそこにいさせよう
母親を大事にしよう。ご飯をご馳走しよう
お坊さんに連絡をしよう。魂との会話をしてみよう
あの神社に行こう。感謝を伝えに行こう。お賽銭はお札をすっと入れよう。
あの曲を聞こう。父が好きだといっていたあの曲を。
涙を流そう。止めようとせず、あふれるままに。
何を言われても気にしない。
病院から注意を受けてもあまりショックではない。
だからといって頑固や意固地というわけでもない。
ただ、穏やかな気持ち、そして愛いっぱいに満ちている気持であるのだ。
父親がこのようになってしまって、
ショックよりもその事態は愛の大きさと深さを教えてくれるものだった。
ここには愛がたっくさん満ち溢れていると。
そして愛があれば不可能なことなどないとさえ思えて、なぜか笑顔になるのだ。
心が重いはずなのに軽やかになるのだ。
キセキはすでに起こっていた。
私がこれまで生きてきたものがすべて生かされていた。
自分の肩回りや指先に霊気が宿るのも感じていた。
目に見えないものは信じにくい。
それは見えないから。
見えるものばかり信じ込まされてきたから。
でも私の存在はそんなに小さいものではなかった。
目に見えないもののほうが重要であった。
私は自分と周りの人が、笑顔でいて、やさしさにあふれていて愛が満ち溢れる場を作ろう。そしてそれは拡散して、大きくなり、いろいろなものを飲み込み、人々の、私の成長と理解を上げるものとしよう。そう思うのだった。
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