宣告から2日目:お墓参り
今日死ぬと言われたのに
母親と姉は病院からいつ電話がくるんではないかと気が気でなく眠れなかった。
「今日か明日にはあなた方の父親は死ぬかもしれません。」
と宣告を受けたのだ。
父親の意識不明は「脳卒中」だった。
専門的な話は分からないが、脳の一番大事な器官がどうしようもなくなっているらしい。
手の施しようがない、
意識不明のまま生かすしかない
というあまりにも突然で酷な結果であった。
見込みほぼゼロほど希望がない話はないだろう。
母親と姉は悲観に暮れ、怖くて、夜は一緒に寝たと言っていた。
これからのこと、死を受け入れる心構え、悲しみ、いろいろなことが
唐突に一夜で起こったのだ。
父親の突然の宣告を受けた翌日の早朝、
私は墓参りに行くことに決めていた。
なぜ墓参りか。
これも直感なのだが、先祖にあいさつに行け、と心に声が届いたのだ。
水2Lと塩とお線香、掃除ブラシと雑巾を持って出かけた。
途中できれいな花束を購入し、運転中はオーディオブックで
潜在意識に関する内容の話を聞き流していた。
母親はあまりにもショックすぎて、お墓になんて行きたくないと言っていた。
ふつうはそれが正常なのかもしれない。
でも自分で自分を信じる、道筋を作ると決めた私は
私なりの行動に従って動く必要があったのだ。
お墓までいろいろ考えた。
それはこれからのことではなく、
どういう現実を作っていくか、どういうマインドであるべきか
ということであった。
・思考は現実化する
・潜在意識が現実となる
・マインドから現実が想像される
・個々によって見える現実は異なる
・この世に正義も悪も、正しさも間違いもない
そういった類のことをこれまで学んできていたからだ。
それならば肝心なのは外部の状況や情報ではなく、自分のマインドづくりにある
と思ったのだ。
たとえ100人中99人の人がNOといったとしても、
私は信じられるものにYESと言おう。
たとえ専門家や経験者、偉大な人がYESといっても、
私は自分の魂の声に耳を傾けよう。
私の先祖のお墓は山の中にあり、かなり原始的である。
毒キノコのようなものが生えている山道を抜け、到達する。
不思議と気持ちよかった。
ここまでたどり着き、墓場の空気を吸ったことが。
墓石をすべて水で浄化して、噴き上げ、
花を生ける花瓶を洗い、きれいな水にきれいな花を生けた。
線香を立て、祈りをささげる。
南無阿弥陀仏を100回唱えた。
何妙法蓮華を100回唱えた。
お坊さんから教えてもらったお経を唱えた。
そして自分の湧いてくる声をそのままつぶやいた。
もちろんご先祖様への感謝も述べた。
そもそも私がこうして生きていることへの感謝と愛を捧げた。
どうなるかはわからない。
でも、この世が本当に目には見えない力やエネルギーで繋がっているのならば
不可能なことなど何もないとも感じた。
墓参りをしたから何になるとかそういう結論を出したいわけではない。
ただ直感に従った結果、
自分のマインドを思い通りに導いていきたい結果として
起こったことであった。
自分の父親はまだ生きている!!
それが現実であった。
死にそう、死ぬだろう、死ぬかもしれない。
というのが予測であれば、
生きる、元気になる、すっかり良くなる
というのも信じてよい予測だ。
現実の悪いほうばかり見て、
今を見失っている。
今起こっていることは何か。
次におこることはどうやって決まっていくのか。
データか、論理か、それとも思考や信念か。
何を信じてもよいのがこの世だと思う。
それならば、私は希望の光を信じることにした。
父親は目を覚ます。
私一人でもその思いを持ち、信じていれば
それはゼロではなく一になるのだから。