宣告

突然知らされた父親の意識不明

人生は何が起こるか分からないと聞くことはあったが、そんなに驚くことはめったにないものだと思っていた。

「パパが意識不明で数時間以内には死んでしまうかもしれない。」
母親からの電話を受けた。

その日は彼氏のぎっくり腰がどうしようもなくなり、
車で2時間かけて朝から整体院へ行っていた。
少し回復したみたいでよかったね。なんて話して
駐車場に戻った時、母親から電話があった。
母親はめったに電話をすることがないので、直感的に
「誰か死んだのかな」
と感じた。
もう100歳近い年のおばあちゃんかも、と思った。
でも違った。
病院に運ばれて死をまじかにしていたのは父親だったのだ。
母親の声は弱くあきらめきったような感じであり、
すべての力とエネルギーが失われていた。
事態の深刻さを悟る。
しかしこのような緊急事態にも関わらず何故か落ち着いていた私がいた。
「受け入れるしかない。」
リアルな現実、受け止めたくない現実であるけれど、
受け入れることから始めなければ何も進まない。
それを直感的に感じ、心のまますぐに病院に向かった。
この時はただ受け止めよう、受け止めようと自分に言い聞かせていた。

父親はICUという特別集中治療室という個室に入れられており、
面会もかなり制限が厳しかった。
母親は朝からいるみたいでかなり疲れ切っていた。
夜帰ってこなかった父親は、早朝に神社の駐車場で倒れているのを
発見されたのだ。一晩中、意識を失っていたことになる。

「状況はかなり深刻。
助かる見込みはほとんどない。ゼロに近い。
助かったとしても、呼吸器で繋がれただけの状態となる。」
と何も希望のない判断だけが下された。

人の死はこんなにもあっけなく、あっさりと突然訪れるものなのか。
それも自分の父親が。まだ60代で、仕事もこれからだ!と前向きな精神であったはずの男性に。
まだ親孝行も何もできていない。
一緒にやってみたいこともある。
まだまだ今からが良くなるんじゃないの。
そんな気持ちが一気に出てきた。

父親はたくさんの管で繋がれ、意識不明でありながらも
一生懸命に呼吸をしていた。
私と母、姉は面会が認められ、大きな声で呼びかけ続ける。
「パパ、まだ死んじゃダメだよ!」
「生きてよ」
「わかる?色々ごめんね。」
たくさんの思いと声が父親の横たわる肉体に浴びせされる。
涙があふれる。
涙が勝手にどんどん落ちてくる。
父親は息をさせられているようにも見え、
懸命に生きようとしているようにも見え、
生きたいのか、死にたいのかわからなかった。
意識はなく言葉は届かないかもしれない。
でも父親の右目からは少し涙が流れていた。
自然現象や反射的なものかもしれない。
でも私は、感情は生きている、まだここにいる
と思った。

面会は10分までしか認められなかった。
あまりにも変わり果ててしまった父にみんな沈黙していた。
いつ死ぬか分からない。
今日かもしれない、明日かもしれない。
夜や朝に病院から電話が来る可能性のほうが高い。
そんな状況にあった。

夕方になり私は一人になり考えた。
どうすればよいのか。
普通だったら、悲観に暮れ、悲しみ、嘆き、運命を呪い、
絶望とともに過ごしていたかもしれない。
でもそうしない手段もあった。
それは自らの頭で考えること。あとは直感を信じることだった。

まずは神社に行った。
困ったときの神頼み、みたいで苦笑する人は多いだろう。
でもこの時は思考と直感をフル回転にさせ、結局は直感的な行動に
ただ従って動いていたのだ。

運が良かったことに、お気に入りの神社、この日のこの時間は
誰も人がいなかった。

その時持っていた現金をすべて賽銭箱に入れた。
お金なんてこんな時には何にも役に立たないけれど、
プラスに働いてくれ、という思いですべてを投げ入れた。

落ち着いて、焦らず、感謝から祈った。
私がここに今いること、生きていること、幸せであること、
裕福であること、人に恵まれていること、すべてに感謝を示した。
そういえば長らく神社にお参りに来ていなかった気がする。
そして父親のことを思った。
でも願い方にも気を付けた。
「助けてください」
はなんか筋違いだと思ったのだ。
「楽にしてください」
とは言いたくなかった。
最終的にはこう拝んだ。

「死はきっとこの世で一番幸福の瞬間です。
 私はきっと前世でもずっと死んできているからそれがなんとなくわかる。
 でもそれは最高の瞬間、最適なタイミングで起こるはずです。
 父はまだその時ではないと思います。
 私の勝手な判断かもしれませんが、今ではない、そう思います。
 もしこれが正しければ、これは何かいいことが起こる前の大きな負のきっかけ 
 であるのでしょう。
 死という最高で最上の瞬間を今、父親にどうか与えないでください。
 彼はもっと活躍できます。
 私はそう信じています。」

人が何と言おうとそれは全く関係ないことだった。
私は私が信じることを信じよう、そう素直に思った。
私の祈りに、言葉に、間違いも正しさも、正解も不正解もない。
ただそれは、道筋を示す行為のきっかけになる。

全く不安や焦りや恐怖がないわけではない。
でも、周りの声に、
専門家の声に、
偉大な人の声に従って生きていいのか。
いや、今回からは自分の声に従って信じる。
そう決意した。



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