好きなことは自然に続けられるし、好きでないことは続けられないようにできている 小説を書く方法の多くを、道路を毎朝走ることから学んできた 小説家にとって何が重要な資質かと問われれば迷うことなく集中力をあげる 自分の持っている限られた量の才能を必要な一点に集約して注ぎ込める能力 集中力の次に必要なものは持続力 もし自分で決めたルールを一度でも破ったら、この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったら、このレースを完走することはおそらくむずかしくなる 大
絵や音楽をことばの説明を仲立ちにして見たり聞いたりしようとするのは、ことばに頼りすぎた者の悪い癖である 文字がなくても絵本になるというきっかけから「旅の絵本」を出版した しかし、この本ができたとき「何が言いたいのか。文字がないからわからないと言われた」 文字は説明的な意味を持っているが、絵は説明ではない 詩も違う気がする ことばで書くほかないが、そのことばの説明的な意味から逃れようとしているように見える 展覧会の絵でも見る場合は、その題名を先にみて、意図を読み取ろうとす
ファッションというのは物書きでさえ書けない、言葉にできないものを形にする最先端の表現 体と服の間に微妙に空気を入れている。「行間」を読むというような意味での「間」である。間の美学というのは日本にしかなく、誇るべき美学である 具体的なデザイン画は描かない。まずは「言葉」 作ったものには、その人のコンディションや生活、考えがすべて出てしまう
どんな小さなハイキング的な登山であっても、登る人自身が登り終えた後も深く心に残る登山が本当である どんな小さな登山でも、自分で計画し、準備し、一人で行動する。これこそ本当に満足のいく「登山」ではないか。その過程が苦しければ苦しいだけ、それを克服して登り切った喜びは大きい 山は他人のために登るものではない。山は自分のために登るものである
アンドリュー・ワイルズが少年の頃に抱いた情熱そのままに350年間解かれることのなかった問題「フェルマーの最終定理」の証明に挑む 数学の美:自然という書物は数学の言葉で書かれている 数学は他のどのような学問にもまして主観を排した学問 M.C.エッシャーは様々な数学のアイディアに魅了された画家
オープンダイアログのゴールは全員が合意に達することではなく、異なった理解を上手くつなぎ合わせ共有すること 上下関係や社会的役割が重視されるのではなく、メンバー全員のあらゆる発言が許容される雰囲気が大事 対話の中で「新たな言葉」を生み出し、メンバー間での共有可能な発話を導き出す 相手に問いかける以上に、相手の発話に耳を傾けることが大事 論理的に反芻したり、説得を試みたりすべきではない 何かを決定するのではなく、「対話の継続」それ自体が目的であるような対話 結論をいそ
土地を放棄してそれ自体(流れ)に委ねることはプロセスを開始させるための本質的条件である 「動いている庭」で求められる哲学:できるだけ「あわせる」ようにして、なるべく「逆らう」ことをしない 植生を足していくのではなく、引いていく。既存の植生を生かした作業 「野原」:すっきりと説明できないことが重要。意図を定めないこと、ほとんど具体的でないことで、ひとつの知の構成全体が反映されたかのようになる 「庭」というのはそもそも「囲われた土地」を示す。囲いの外では自然のエントロピー
感染症の歴史(ペスト、コレラ、天然痘、スペイン風邪)から学ぶこと:これまで人々はその歴史から学ぶことなく、同じ間違いを繰り返してきている 今回の新型ウイルスの流行:世界が今やどれほどグローバル化され、相互につながり、絡み合っているかを示す「ものさし」となっている 世界がいかにボーダーレスであるかを再認識:感染症流行時の共同体は自分の暮らす町ではなく「人類全体」にまで及ぶということ 人類の有能さ:感染症流行時において人類の不幸の種となっている(例:陸海空の発達した移動手段
読書が趣味の母の影響もあり、僕は人並に本に慣れ親しむ環境で育った。とりわけ興味と好奇心を惹きつける身近な学びの場として、今もなお「絵本の世界」がある。 冒頭に示した穂村弘さんのいう絵本のもつ普遍的な良さは、30歳を目前に控えた僕を今なお一層強く惹きつけ、時に子供心を思い出させ、夢のような楽しいひと時を与えてくれる。 一方で、1人の自立した建築を生業としていくものとして俯瞰的にその世界を見た時に、「絵本の世界」にある秩序や厚み、広がりといったものに、建築を通して考え、向かっ
昔の人間は1本のろうそくで足りたのに、現在では百燭の電気をつけなければものもよく見えない ↓ 生きていくのに必要な条件がますます多くなっていくのが真実の幸福と何の関係もない ↓ あるいはむしろ幸福を妨げるものである ※隈研吾 「ひとの住処」より 作ることよりも、持つことよりも、それを使いこなし、使いたおすことのほうが、ずっと豊かである 吉田茂「作る人」 ⇆ 吉田健一「楽しむ人」
◆「切断としての建築」ではなく、「接合としての建築」へ ◆【20世紀前半】建築という存在が絶対的な重さを有していた時代:「建築」対「物」という分割が有効だった ⇒物も建築も含めて、すべてがより軽くなった今、この分割はもはや無効 ⇒【現在】「場」と「物」の新しい分割 ◆「美しい建築」といわれるよりも、「批評性がある建築」と言われる方がはるかにうれしい ◆20世紀の建築界:「形式」対「自由」の二項対立 ⇒冷戦期(巨悪の存在を前提とした時代)において、「勝つ」技法が支配
「屋根のある公園」:だれもが自由に出入りできる公園のようなスペース 今あるその場の空気感を変えないようにするのは後から設計する者のマナー 一番エネルギーを費やしているのは工事監理段階においてのチャレンジ。「図面通り」というのは完璧ではない つくり手のことも考えながら、現場の状況を見ながら、より良いものにしたいと取り組む姿勢 ダメ元でも考えを言い続けていることが重要 寒冷地のサッシ:断熱性能が高いことに加え、結露をどうコントロールするかが課題→結露水の帯水を避ける→そ
20世紀とは工業化の社会であった→これからを考える 造形力や美的センスよりも、身に着けるべき能力→その建築に人は何を求めているのか、社会がその建築に何を必要としているのか理解する能力 場所が違い、出会う人が違うから自然と作品は変わってくる 「吉田健一」と「ヨオロッパの世紀末」:作ることよりも、持つことよりも、それを使いこなし、使いたおすことの方がずっと豊かである 建築だけを見てその配置や形態だけを考えてデザインをする時代を終わりにしたい 産業資本主義の建築 : コル
建築とは、身体的に共同体への参加を感じる「場」をつくる技術 厳しいコストのなかでつくるというのは、設計事務所を経営する立場ではつらいけれど、設計者としては意味がある 徹底して工事コストとか法的なこととか、社会制度のなかからこちらのつくる論理を発見していくという作業 短期的利益を最大化するよりも、経済的な適性規模の提案 建築に特許はなくていいから、なるべく情報は公開すること→社会の財産をつくる コロナのあとは、ムラ的な、国民国家ではない、小さな規模の人間の関係性を大事