紅い絵の話。
何の共感も覚えなかった。
ただこれほどまでキャンバスを紅く染めたがるのだから、きっと作者はキャンバスを紅く塗りつぶす作業がさぞかし好きだったのだろう、とは思った。
油絵の具の匂いフェチかもしれない。
でもそんなことを正直に口にしたら「芸術の冒涜」とか「分かってない」とか言われて波風が立ちそうだったので、「作者の切実な孤独感が伝わってくるね」などと適当なことを言った(キャンバスの傍らに『孤独』との題が付けられていたからだ)。
案の定、連れは嬉しそうな顔をして「だよね!」と言い、それからその作者の経歴やら時代背景、出身国の事情などあれこれ説明し始めてくれた。聞いたそばから忘れてしまったので、もはやここには書けないが、もともと芸術家として人気があった作者の人生が、だんだん上手くいかなくなっていった時期があって、その頃に作者はキャンバスをひたすら赤く塗り潰し、白の三角形を加えただけの同じ絵を作り続けることに没頭した、という話だった。連れの説明に「必然」だとか「象徴」だとか「社会への」とかいう言葉が何度か繰り返し出て来たのは覚えている。やっぱり共感は出来なかった。
東京から常磐線で軽く2時間は離れた街から、田舎臭いリュックサックとスニーカーの出で立ちで上野に来た。連れに「ダサ過ぎる」と叱られた。
田舎者が東京に出る時、必然的に心が構える。“なんでも揃っている”東京は、レストランに例えれば食べ放題のお店だ。「来たからには元をとってやろう」などと構えてしまって、穏やかであるべき食事が、必死こいて食えるものを食えるだけ吸収する競技のようになってしまう。
僕は上野のブンカ的な街に、そんな土臭い貪欲さを持ち込みたくなかった。だからあえて無欲を気取って、近所へザリガニを釣りに行くが如くダサいトレーナーで来てやったのだ。
いや、嘘。本当は余所行きの服を買うのが面倒臭かっただけだけど。
「作者は心に深い孤独を抱えてて、その孤独は、赤いんだって。すごいよね」
なるほどよくわからない。
すごい分からない。
「すごい」がすごい分からない。
ただひとつ分かったことがあった。作者は芸術を極め過ぎて孤立していた人間だったということ。そんな男が、紅いキャンバスに白の三角の抽象画を描くだけで時代を超えた共感を集められる、なんてのは理屈としておかしい。よって「切実な孤独感が伝わってくるね」などと適当な感想を述べる奴は誤りである可能性が高い。
無論僕のことだ。
さあ、誤っているぞ。僕は誤っている。誤りを指摘してくれ!などと考えている間も、連れの説明は続いた。対象は次の次の絵に移っていた。そこから3つ先まで、ただひたすらキャンバスを紅く染めただけの絵が続く。
もはや無感動の極致だった。
ただ「作者自身の好きな世界を心ゆくまで表現しているのだろうな」というのはなんとなく思った。
こういうのが好きな人たちも居るんだね、とは思った。
そういう人たちのための、世界。
自分とは何の関わりもない世界。
そのうち、それらを鑑賞している僕という状況そのものに対する無感動と、一面を深紅の油絵の具で塗りつぶされたキャンバス(今度は『抵抗』というタイトルがついている)に対して抱いた無感動との間の、境界が消えた。
叩けばこんこん軽い音のしそうな背景の白い壁と、そこに架けられた紅い画面との間に、視覚上の差異以外の区別を何も感じられなくなった。
どうでもいい。
無関心。
興味が無い。
意味がある、芸術だ、などと言われてもこじつけに聞こえる。
紅いだけの絵じゃないか。
もはや空気。
背景の一部。
無視。
無意味。
……蔑ろにされるべき作品。
そこで僕ははたと気付いた。
『孤独』という題名。
もしかするとこの絵は「関心を持たない」ことが正しい鑑賞法なのではないだろうか。
やはりこの絵は、ただただ紅いだけで、何の意味もない。
奇異ゆえに、最初は人目を引くだろう。
しかし鑑賞者はじきに「意味がない」と悟る。するとこの絵はそれきり無視され、蔑ろにされる。
つまり絵そのものが『孤独』に陥るのだ。
まるで奇天烈さを装うことで人目を引くことしか出来ない、孤独な人間の心根そのものを映し取ったような絵ではないか。
だとすれば次の次の絵にある『抵抗』という題は、なんとかして人目を引きつけようと足掻く人間の試みを表しているのかもしれない。絵のメインは紅、人目を引く色。青や緑では目を引かない。孤独から逃れようとする作者は、紅を纏い続ける必要があったのではないか。
ちなみに2枚目の題は『繰り返す』だった。
「作者は母国で内戦を経験して、そこで、仲間の兵士の死を目の当たりにしたりもした。その血の色を意識しているんじゃないか、っていう説も……あっ、待って」
僕は急ぎ足で4枚目の題を確認しに行った。『埋もれる』。
数多の芸術作品の中に埋もれてしまう、の意味か。
5枚目は『惰性』。
同じような絵を5枚も描くのは惰性でしかないだろう。
「この作者はね、死後になってこの一連の紅い絵の高い芸術性が評価されて、一流芸術家としての地位を不動のものにしたんだよ」
と連れは言った。聞けばそれはおよそ僕が勝手に抱いた解釈とはかけ離れた評価だった。評論家がよってたかって、絵と作者個人を関連付け、意味付けをしたがり、あまつさえ論争さえ引き起こしていた。
しかし僕の解釈が正しければ、これらの絵は「意味がないこと」を意図し、絵そのものが「無視される」ことによって、「孤独な人間」という普遍的な存在の有り様を風刺していることになる。
僕は改めて、6枚目の絵を見た。
紅く横長の四角いキャンバス、中央に白の三角形。
脇に添えられた題にはこう書かれていた。
『YouTuberやめます』
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