自分なんかが命を持ってることが重くて不安だったんだ。
デスゲームとか、人が大勢軽々しく死んでいく作品が昔から嫌いで。
これは別に「命を軽んじているのが許せない」とか大義のある信念ではない。
純粋に生理的な嫌悪感だった。
聞いた話では人間は理性的で、正しい生き物なのだという。その理性や正しさとやらを、僕も長年押し付けられてきたような気がしている。飲めもしないのに水みたいに当たり前に。
そんな規範的な顔した人間たちの多数が、あんな理性的でも正しくもなさそうなグロをどうして好んで生み出して視聴するのか? そしてその嗜好と「理性」や「正しさ」とをどう理屈的に両立させているつもりなのか?
僕にはまったく長いこと理解不能だった。
比較的最近、僕はその嫌悪が、僕の自他境界の無さと自己愛の強さに由来している、と気付いた。
つまり平均の人は、他人の死の苦痛をまるで自分の苦痛のように捉えてしまう症状もないし、他人の死を見ただけで「自分の生・存在が揺らぐような不安」を即想起するほど自分の命に強い執着もしていない、ということ。
簡単にたとえよう。
誰かが1万円札をポロッと落とし、そのまま気付かないでいる。
落としましたよ、と声をかけるかどうかの話は一旦置いといて、あなたはその様子を見て「自分もお金を落としているのでは?」という種類の不安を持つだろうか。
僕は、持つ。
僕は不安で、財布を入れたポケットやカバンを触らずにいられないだろう。
自分の出来事と他人の出来事を区別する境界が弱い。
或いは、誰かが1万円を無駄にサクッと失った話を聞いたとする。
あなたは、自分のお金までもが今にも失われるような不安を持つだろうか。
僕はこれも不安だ。
これを執着と呼ぶかどうか微妙かもしれないけど、執着とは結局安心感のなさではないか。
「いつ失われるかわからない」という不安、確かな所有感のなさ。
平均的な人は、自分の財布に入っているお金が急に勝手に消えるとは考えもしない。安心している。「安心」という言葉が大袈裟に聞こえるくらい、当たり前に1万円札を財布に入れて持ち歩いている。
ここまでした話の「1万円」を「命」に置き換えたものが、僕が持つ不安だ。
数年前からネットで散々バカにされている「自他境界のなさ」と「自己愛の強さ」。
特に前者。
他者のコトや感情を無条件的に自分事のように置き換える……というのは実際、「共感している」「受けとめている」というのとは少し違う。
なぜなら、その時の自分にとって理解できないコトや感情もあるからだ(それを知らない人は「自分」と「他人」を完全にイコールだと知覚してしまう、狭義としてはそれが「自他境界がない」ということだろうけど)。
「共感」は、自分が理解できないコトや感情に対しては及ばない。「受けとめる」も同じ。
それに対して「あたかも自分事のように捉える」「まるでありのまま同じ感情を持ったかのように捉えてしまう」というのは、自分が理解できるコトとできないコトとの境界が溶けている。全てが入ってきてしまう。
それは自分の理解できるコトや感情の幅が広いからそうなっている、というわけではない。
むしろ自分の既知の範疇におさまるよう、入ってくるものを都合よく曲解しなければ成立し得ない。
僕には自身の曲解のプロセスが自覚できない。
ただ「そういう曲解を挟まなければ理屈が合わない」と理解しているだけ。
そして自己愛の強さ……自分への執着、自分が「間違う」「否定される」ことへの極大な不安定さが、自分の曲解を見直して誤りに気づく勇気を悪者にしてきた。
でも最近、良い意味で、前より自分の命が軽くなった気がする。
自分の命が軽くなってから、少しだけ他人を見てる時間が増えた気がする。
自分の命に重々しく身構えて、過度に意味を付与しながら対峙してた頃、他人の命も同じようにしんどく見ていたはずだ。
本当は元からずっとずっと軽い命だったのに、その軽い命をあまりにも唯一絶対視し過ぎて、自分しか見えず、何も身動きできなかったのかも。
いや、この書き方も少し理屈だけが上滑りしてる感じする。
ただただ、自分なんかが命を持ってることが重くて不安だったんだ。
今はそう重くは見ないように、と意識するようになった。
意識している、というのはつまり「無意識ではそうは思っていない」という意味を多少含んではいるけど。
デスゲームを見てから飯が食えるくらいの軽い捉え方も、きっと悪くはないのだろうと意識するようにはしてる。
意識している、というのはつまり以下同。
あと、自分の命が軽くなってから、他人に好かれる・嫌われるも割とどうでもよくなった。
他人から見て無数にある「軽い命」のひとつなら、別に好かれても嫌われても大した違いではない気がした。
「大切な命の一つ一つに好かれる・嫌われる」っていう捉え方をしてたら、いちいち重大問題になってしまう。
飛び上がるほど喜んだり。
死にたくなるほど落ち込んだり。
腕の力が弱いのに命ばかり重過ぎても、振り回されたときの遠心力に耐えきれない。
あと自分の命が軽くなってから、時間が経つのが速い。
月の満ち欠けが異様に早い。
軽くなった自分は、実際、あの人に嫌われてしまうと思う。
あの人は、ほんとうに、一つ一つの命をちゃんと大切にしているから。
少なくとも僕にはそう見える。
「自分の命が軽い」なんて皮肉な言い方したらきっとあの人を傷つけてしまう。
それを決して「どうでもいい」とは思いたくない。
そう、 軽く考えようと思ってるんだよ。
過去を脱皮して、考え方を変えられたらいいな、って思ってるってこと。