私が教えた「国際協力」は、“学生のため”になっているのか。
大学の教員として「国際協力」を教えて20年以上、私はずっとハラハラしていた。私の教えてきたことが、導いてきた道が、本当に教え子たちのためになっているのか。むしろ、彼らを日本社会の常識から遠ざけ、生きづらさすら持たせているんじゃないか、と。
まず最初に、私自身のことを少し書こうと思う。私は東京都町田市にある桜美林大学で国際協力を教えており、あと2年で定年を迎える。
大学で教え始める前は、ある日本の民間財団のスタッフとして東南アジア諸国でのさまざまな現地プロジェクトに資金助成をおこなう仕事に従事してきた。最初の10年は主にインドネシア、後半の10年はベトナム、ラオス、カンボジアを担当。各国を訪問して現地の大学や組織の人々と会い、資金援助に相応しいプロジェクトを発掘する仕事である。いわゆる開発分野(途上国・地域の開発を目的とする援助活動)ではないが、広い意味では「国際協力の仕事」と言っていいだろう。
あわせて、日本と東南アジア諸国との文化交流の仕事も担当した。「隣人をよく知ろう」プログラムという企画で、東南アジア諸国の現地の言葉で書かれた小説などを日本語に翻訳・出版する助成を通じ、200冊以上が日本で刊行された。逆に日本の本を現地の言葉に翻訳して出版したり、あるいは東南アジア内の小説などを相互に翻訳・出版することにも資金助成をおこなった。
そういった仕事のなかで、インドネシア、ラオス、カンボジアなど各国のNGOで働く日本人とも親しくなることも多かったように思う。国連やJICAの専門家、研究者の人とも知り合い、国際協力の現場で働くことがどういうことか、そこにある矛盾や課題も含めて、それなりに知る機会があった。
縁あって大学に転職した時、実は募集時点では「国際交流」の科目を持つことになっていた。そのつもりで着任したところ、「国際協力」の科目も持ってほしいと言われ、当惑したのを覚えている。私自身、大学院では国際開発協力の始まりについて研究していたこともあり、何とか国際協力の科目を持つことはできたけれど、自分の意思でというよりは大学や学生からの要望に応える形で始まったのだった。
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国際協力の仕事をしていた時から「これは非常にマイナーな仕事だ」と感じていたし、正直に言えば、こんなマイナーなことを誰が勉強しにくるのだろうかと思っていた部分もある。ところが、実際に講義を開いてみると30人いればいいと思っていた「国際協力論」の初回には200人もの熱心な受講生が集まり、ひどく驚いた。
学生たちは純粋で、本気で「貧しい国の恵まれない人のために働きたい」「世界を変えたい」という夢を持っていた。国際協力の現場を見てきた私からすれば、国際協力の仕事がそんなに甘いものでも、綺麗な世界でもないと思ったけれど、若い彼らの夢を壊すのも憚られた。
もちろん夢ばかりを見せたわけではなく、現実的なことを伝えてきたつもりではある。ただ、胸の内では常に迷いがあったのも事実だ。国際協力を教えるということが、本当に学生のためになるのだろうか。彼らの人生をを迷わせることになりはしないか。ハラハラした気持ちを持ち続けていたように思う。
国際協力の世界、つまり国連やNGOなどの常識は「日本の常識」ではない。国際協力を通して学んだことを日本社会の共通理解だと思うと、学生たちは社会に出てからとんでもないギャップを感じるだろうと思っていた。
例えば、ジェンダー平等。国連では1970年代から取り組みが始まり、2000年代にはすっかり常識化していたが、日本ではようやく最近になって動きが出てきたばかりである。
そういった日本社会との“ズレ”を、国際協力を学んだ人たちは感じるはずだし、結果的に日本社会のなかで圧倒的なマイノリティになってしまうだろうと思っていた。先回りをするように、学生たちにも「誇りあるマイノリティ」になれ、と言ってきた時期もある。
実際、卒業生たちの飲み会に招かれると、「職場の人とは国際協力の話題を共有できない」という声がやはり圧倒的であった。彼らにとっては最高におもしろい開発途上国の話題でも、社会に出てみれば「危ない」「汚い」「貧しい」イメージの国々の話に興味関心を持たない人のほうが多い。そんな国に行ったことをいかにも楽しそうに話す彼らを、人々は奇異にすら感じるんじゃないだろうか。そして、学生たちをそんな「日本社会におけるマイノリティ」に育ててしまうことは、本当に“良いこと”なのだろうかという危惧を持っていたのである。
一方で、ある時からは割り切るような気持ちも出てきた。彼らは学びたいから国際協力を学んでいるわけで、それは彼らの選択の自由だ。一介の大学教師の影響力はたかが知れているし、そこまで責任を感じる必要はないのではないか……と。
そしてさらに年数が経ち、卒業生の数と進む道が増えるにつれ、もう少し考えも変わった。私がマイノリティだと思っていた彼らが、実は将来のマジョリティになるのかもしれない。むしろ社会を良い方向に変えていくのはマイノリティなのではないか、とすら思うようになったのである。社会に出て、卒業生たちが苦労するのは分かっていた。けれど、その苦労の先に、より良い日本社会が見えるのかもしれない、とも自分を励ましていたように思う。
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今では、ゼミ生の総数も200名を超えた。いまだに音信がある卒業生も少数いるものの、大多数の教え子たちは、卒業後にどうしているのかを知らない。
定年退職まで、あと2年。20年以上にわたって国際協力を学ぶ学生に関わってきたことの意味を自分で確かめてみたい、と思った。国際協力を学んだことは彼らの人生にどのような影響を与え、彼らはどう生きてきたのか。大学で私とともに世界を見つめた彼らが社会に出た今、どんな夢を持ち、未来に向かっているのか。ふと、そんなことを聞いてみたいと思ったのである。
独りよがりの妄想かもしれないし、どんな答えが返ってくるのか想像もつかない。試しにたまたま連絡を取り合ったある卒業生に話してみたところ、「それは先生、面白いかもしれない」という反応が得られた。そこで、賛同してくれた卒業生3人の協力を得ながら、行き当たりばったりに卒業生たちを訪ねてみようと思い立ったのが、この企画だ。
旅の始まりは、最近偶然にも連絡をくれた卒業生からである。これは社会で役に立つのかもわからない、ちょっと変わったことを勉強をしたかつての若者たちを訪ねる話だ。卒業生たちと人生を振り返りながら、今、彼らが生活や仕事、家庭、社会をどう思っているのかをスケッチしていけたらいいな、と思っている。