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亡き父と友人とMoon Riverとパニック障害と
パニック障害になった。診療内科で医者に診断された時、まあそうだろうなという気持ちと、ちょっとメンタルが弱いだけと思っていた自分がまあここまでなるかと、頭の中でちょっと笑ってしまったのを覚えている。久しぶりの投稿は、これまでの経緯を書き残しておく。
2021年の初めまで、東京に住んでいた。新卒で入った会社は、打ち合わせやらなんやら偉い人が集まる時に用意する高い弁当のほとんどが捨てられてしまうのが嫌になった、という側から見たら間抜けな理由で1年と少しで辞め、それからの東京はフリーターとして、ただ質の悪いアルコールを飲むだけの清貧とも言えない生活であった。会社員として使っていた地下鉄の路線に乗ると、ごく偶に動悸と汗が止まらなくなり、でもホームに降りれば治まるから、ちょっとメンタルの弱い人間が「救心、球心」とつぶやくだけであった。この出来事は、自分の中では些細なものであったから、友人には「辞めた職場の最寄り駅に近づくと動悸止まんないですわぁ」とヘラヘラとファッションメンヘラ然としていたのを覚えている。今考えてみれば、粗悪で乱暴で、誰も幸せにならない不快な発言だ。
noteにもちょこちょこ書いているが、学生時代から生活の一部として通っていた銭湯は、大したことないがちょっと傷ついた自分に、気持ちの地ならしをしてくれる場所として重宝していた。各地の風呂に巡って小旅行気分
を味わうことも、全部が嫌になって、それらを一瞬でもかき消してくれる
ことも、なんでも心の汗を流してくれるところだと捉えていた。銭湯にさえ行けばどうとでもなる。もう大丈夫だよ、と言ってくれる。ここだけは、最後の砦であった。
昨年の10月、父が事故で亡くなった。突然のことであったし、地元にも帰らず、私が実家にいる時間は大体仕事であるから、ほとんど顔を合わせることもなかったので、遠くの親戚がいなくなったくらいの気持ちで、とにかく実感が湧かなかった。あとは、高校生の時に父から勧められて、思春期なのに一緒に一狩りしていたゲームの数千時間分のセーブデータを、彼が誤って消してしまったことに激怒し、それから10年近く口を聞かなくなったことも要因である。ただ、大学の合格発表の日に、オンラインで合格通知が届き、叫びながらリビング行くと父しかおらず、「お、おう」「ウカッタ」「ヨ、ヨカッタナ」とカタコトの会話をしてから、挨拶くらいはするようになった。
亡くなる1ヶ月前に、偶然帰省しており、最終日の玄関で挨拶だけでも、と「またな」と言ったのはよく覚えている。
亡くなってから母から聞いたのだが、「アイツは不安定だけど自慢の息子だ」と周りによく言っていたらしい。大学合格の時は、誰よりも喜んでくれたと言う。ヘラヘラと会社を辞めた時にも、「馬鹿だけどなんとかするだろ」と気を遣うこともあまりなかったと聞いた。私が時々母に送っていた友人との写真やらなんやら見たときには、「この子がアイツの彼女かな」「相変わらずこのタイプ好きだよな、俺は違うけど」「また結婚するー!とかアホみたいに言うんかな」「友達がいて、楽しそうでいいな」など、いちいち感想を言っていたらしい。会話することはないが、少しだけ気にはしてくれていたようだ。今思えば普通の家族の普通の出来事である。
父が亡くなって、家族の前では全く泣かなかった。男は私だけだから、どうにかするしかないと、忘れないけど忘れるしかない、普通に生きていく他ないと強く強く思った。ただ、友人の前では大泣きして、どうにか支えられて生きていた。
それからはとにかく仕事に邁進することにした。
ミスやトラブルが起こっても、これまでよりキツいことはない、どうにかなると、逆に仕事量を増やしていった。今まではひとりで好きなようにふらふらと業務を行っていたはずだのに、気づけば、できませんと言えない体になっていた。バリバリやってると思われたくないから、昼間は変わらずふらふらし、残業もしない。ただ、帰ってから馬鹿みたいに仕事して、どうすればいいかを常に考え続けた。
明確な昇進ではないけれど、ポジションは上がっていった。現場の仕事を回しながら、マネジメントもする。休みの日は外に出て好きな場所に行って話す。趣味にも没頭して、とにかく遊ぶ。自分勝手に次のステージに行かなければと、起業やフリーランスへの種まきをする。多少無理してでも、絶対にどうにかなる、とにかく好きなようにやってやる、この数ヶ月で人生が順調になりかけている、歯車が回り出していると錯覚した日々を過ごしていた。
心の安らぎであった銭湯にも行かず、働くだけ働いて、遊ぶだけ遊んで、気絶したように眠る毎日。知らぬ間に心身ともにボロボロであった4月のはじめ、私は友人の結婚式で、東京にいた。
友人が主役になる日、幸せをこれでもかと当てられるその日、本当に楽しい1日であった。久しぶりに会う同期と、何を話せばいいんだろうか、とも思ったけれど、それでもひと目会えて本当に嬉しかった。馬鹿騒ぎしながら、元気に暮らしている同期が、眩しくて、でもその眩しさに負けないように、自分も自信を持っていかなくちゃと、自分の今と、これからを話した。披露宴の最後に、友人である新郎の父がスピーチを始めたときに、そのメッキが剥がれていくように、ぽろぽろと涙が止まらなくなった。私の父はこの場所には立てないのかと、私が主役になる日をもう見られないのかと、あえて忘れていた彼のことを思い出した。でも、今日は友人が真ん中なのだからと、それは考えてはならないと、心に蓋をした。
披露宴を終えて、別のコミュニティの友人たちと遊んだ。これまた久々に会う友人たちと遅くまでアルコールを飲み、騒ぐ。東京で会う友人たちの時間が、楽しくて、ただ口を開けてゲラゲラと笑いながら、こんなにも幸せでいいのだろうか。ヘラヘラとしていていいのだろうか。PCも社用携帯も持ってきてないけれど、このままでいいのだろうか。すぐに帰ってまた仕事をしないとどうにもならないのではないか、と不安が押し寄せてきたが、また蓋をした。
住処である大阪に帰る日、始発に合わせて支度をした。朝5時なのに、電車内は人で溢れかえっている。各々が携帯電話を使って何かを打っている。心に少しのざわつきを覚えながら、新幹線に乗る。
8時半ごろ、新大阪駅に到着。御堂筋線に乗る。月曜の朝、サラリーマンでぎゅうぎゅう詰めの電車内で、乗客は携帯電話に張り付いている。だんだんと彼らの身体の周りからどす黒い妖気や、棘のようなものが見えてくる。それらに少しでも触れると、恐ろしいことになりそうだから、自分の身体をぎゅうっと小さくして、イヤフォンから流している音楽だけに集中する。ああ、いつものやつだ、と思った瞬間、動悸と汗が止まらなくなった。
とりあえず最寄り駅までは10分ほど、それだけ耐えればなんとかなる。3曲目に入ったころには大丈夫。衣服を握りしめ、目を瞑って集中する。ホームに降りれば大丈夫、外に出れば大丈夫。
長い10分を終え、ホームに降り立つ。気を紛らわすかのように、とにかく歩いて家路に着く。いつもなら「求心」のジングルが流れるのに、全く流れない。動悸を抑えられないまま、家の鍵を開ける。
それからはあまり覚えておらず、泣きながら家の中を彷徨った。ベランダから飛び降りてしまいそうになった。ひとりだとマズイから、どうにかオフィスに向かう。
混乱したままオフィスに着いて、同僚と会話するが、声のトーンがコントロールできない。何をすればいいのか全くわからなくなってしまい、頭の整理がつかなくなる。少し落ち着いて、上司に状況を報告すると、泣き崩れてしまって、立ち上がることすらもできなくなった。少し落ち着いてから、散歩に誘われるが、オフィスの非常階段を上手く降りることができない。1段ずつ、落ち着いて歩を進めないと、今にも飛び降りそうになる。
お昼頃、だいぶ落ち着いたので、仕事に戻る。メールを返そうにも、キーボードが上手く打てない。指は覚えているはずだのに、頭が信号を出さない。発言もままならない。AだからBという話をしようとしても、ひらがなや数字、その他さまざまな言葉にならないものが邪魔をして、どうやって言えばいいのかわからない。気持ちをグッと抑えようにも抑えられない。やっとの思いで、「今日は帰ります」と残し、オフィスを出た。
それから、1週間の休みをもらった。誰かと一緒にいないと、外に出られない。玄関の前で、動悸が起こる。何の為に外出しなければならないのか、整理がつかない。散歩だけ、と、家まで来てもらって、連れ出してもらう日々。
数日後、心療内科に行くことになった。それまで毎日外に連れ出してもらう。外は音が大きくて不快、数人が歩いているのを見るだけでゾワっとする。生き物の声が聞こえなくて、あるのは無機物の音と匂いだけ。コンビニの入り口の音が大きすぎる。機械音で狂いそうになる。これから、リハビリをすることになるのかと、体調は悪くないのに、ここまでキツいものかと、不安になる。
ひとりで向かった心療内科、話を聞いてもらうだけで少し落ち着いた。自分のメンタルがよわよわ、ってわけではなくて、いろんなことが重なって心の容器が決壊してしまっただけのように思えた。今は、その容器の修復作業期間で、誰でもなることだから、どうとでもなる。医者に話す前に、友人に相談した時も同じ回答が返ってきた。仕方がないから大丈夫、付き合っていければいい、対処法が分かれば問題ない。ただ、それだけ。
週明けて今日、会社に復帰した。仕事が手に付かない。一つもメールを返してない。自分が持っていた仕事は、他の人に割り振られているから、社内ニート状態である。私、役に立たないなあと思い始めて、早速軽い発作が起きた。深呼吸して、落ち着いて、発作と付き合う。最初は仕方ない。仕事ができるわけでもなしに、人の気持ちが分からない、ただ腹が立つどっかの会社の人間のお小言メッセージを久しぶりに見る。かわいそうに思えてきたけど、どうでもいいので無視をする。
発作が起こるまでから今現在までを殴り書いた。乱文で整頓されていないけれど、吐き出しただけで気持ちが楽になった。まだ電車にも乗れないし、今まで通り話すこともできないし、生活を頑張るには程遠いが、ちょっとずつ、好きなように生きていこうと思う。ただ、この病気のせいで、父とのことはより忘れられないものになったし、死んでも私を怒らせるつもりか!と感情が動いたのもなんだか笑ってしまうし、よしもとの「伝説の1日」と先日観劇した空気階段単独公演「fart」の配信が見られなかったこと、御堂筋線で起こった発作の時に流れていたのはジェイコブ・コリアーのアルバムだったことは一生覚えておくつもりだ。