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銭湯にもたれてふける 第3回豊中市「夢の公衆浴場五色」  「トマソンと連呼してみる」

日常から少しだけはみ出せる唯一の場所、銭湯。
浴場を通して各々が社会と曖昧な関係となり、つかの間の極楽を得る。
公共空間でありながら、時間の流れは自分だけのもの。
裸一貫、ワンコインで、あなたとわたしの境目である湯へ目指す。


社会に入ってから数年、フリーター期間も含めて、オリンピック周期ぐらいは経過したが、初めてのゴールデンウィークを経験した。今までは、仕事の帰り道に、知らなかったと自分に言い聞かせるように、そういえば大型連休だったのかと、街の人の浮かれ具合を見てつぶやく期間のことを指していた。なんでも初めてはありがたい。こんな時だけど、ゴールデンウィークだから、と自分に甘えて毎日どこへ行こうか検索するが、その度に「いや、ダメでしょ」「いやいや、いきましょうよ」「ここは私が」「いやいや!ここは私に払わせてください」「私万札しかないから出しとくね」「君に5000円渡して僕があなたから2000円貰えばいいのね」「その計算方法未だにわかんないんだけど」「あ、飴もらっとこ」「次どこ行く?」など、おおかたレジ前で自然発生する推し問答が、私と私の間で行われ、少し休憩、と本を読んだり適当に体を横にしているうちに夕日が目を差し、もう夕方だし明日にしよう、なにせゴールデンウィークなのだからという日を10回弱繰り返し、気が付くと最終日になっていた。なにがゴールデンだったのだろうか。擬似ループをした気分であった。

最終日、携帯から通知が鳴る。公式アカウントかなんかだろうと、開いてみると、学生時代の友人から、「風呂にでも行かないか」との連絡。友人は、当時は大した仲ではなかったが、関西に引っ越してから、あまりにも1人でぼんやり過ごす私を見かねて、こうやって偶に風呂に誘ってくれる。車とキラキラの人間関係に囲まれた学生生活を送っていた彼は、今は海の外の顧客と仕事をしているらしい。外国人の仕事文化が、自分の気質と合わない、と愚痴を漏らしていた。彼が「どんなときでも時間を守れない奴は許せん」とSNSで発信するのを見て、前に彼と風呂へ行った際に、電車に乗り間違えて30分遅れ、「ほんとう〜〜に申し訳ありませんでした〜!!」地に頭をつけたことを思い返し、なぜ私なんかと仲良くしてくれているのだろうと疑問に思った。なんにせよ気にかけてくれる友人がいるだけで幸せである。

今度こそ遅れないように細心の注意を払い支度し、見事に10分ほど遅刻。時間に余裕があるからと、掃除や趣味に没頭する現象に名前をつけて「正式な言い訳」として認めてほしい。頼む。少々気まずい空気に包まれ、彼の車で銭湯へ向かう。

図1-copy

しばらく車を走らせ、到着。大阪府は豊中市の、「夢の公衆浴場五色」という銭湯だ。夢というだけあって、どデカく「日本一の銭湯」と名乗る。ロッカーに靴を入れ、中に入る。左手はロビー、右手は自販機が並ぶ。奥には食事処。そして、中央にちいさな噴水が設けられ、水流が玄関まで続く。入り口側は滝が流れ、鯉が悠々と泳いでいる。「しょ、昭和だ・・・!昭和○年と言われると、西暦計算できない昭和だ・・・!」レトロな雰囲気の内装であるが、綺麗に清掃されていて、居心地がいい。噴水にいる鯉を眺めながら、料金を払い、ロビーでタオルセットをもらう。

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面積で言ったら、テニスコートぐらいはあるんじゃなかろうか、かなり広めの脱衣所、壁の2面は鏡ばりになっていて、もう2面はロッカー、中央にもロッカーがブロックごと設置されている。そして、面白いのが、ロッカーの鍵が電子式であることだ。通常の風呂場であれば、小さなカード型の差し込み式の鍵、銭湯のロッカーといえば最初に連想されるあのアナログな鍵であるが、ここの鍵はデジタル。開業当時、公衆浴場にしてはかなりの技術を採用したのではなかろうか。常に弱点である水にさらされているのにもかかわらず、今も現役で稼働している。昭和の先端技術が今日まで引き継がれているのを見て、昭和時代の力強さみたいなものが、こんなに細かいところでぼんやりと見えた。

脱衣所から階段を昇り、2階の浴場へゆく。スーパー銭湯のような広さ、書ききれないほど多様な浴槽、壁の3面に渡って20席をゆうに超えるカラン。気持ちが昂って、体温が上昇し、いるだけで身体が蒸気のようにふやける空間。まずは身体を洗う。カランに沿って、30〜40cmほどの高さの縁石が備え付けられている。それがちょうど食堂にある長いベンチのような形をしていて、利用客はみなそれを椅子代わりにするのだ。じいちゃんも子どもも並んで座る。ここではだれもがおんなじで、より一体感のようなものが感じられた。しかも、しっかり縁石の役割も果たしていて、シャワーから流れる水を堰き止め、通路側に流れない構造になっている。銭湯に行くと、利用客が流した水や泡が広がって、言うわけじゃあないけれど、おおう、とびっくりすることが少なからずある。あるあるだけど、忘れちゃう、こんなのところに気遣う優しさ、既に日本一かもしれない。

場内中央の通常の風呂へ。正方形を象った浴槽は、低温、高温と2種類に分けられていてる。壁を正面にして利用客が身体を洗っているから、中央にあるのに視線はあまり感じない。本当によく考えられたデザインで、人々と水の音に囲まれつつも、1人の時間を楽しめる。浴槽の縁にもたれながら、ぐるりと辺りを見やると、サウナ、水風呂、リクライニングソファに座るようにして入るジャグジー、檜風呂、そして、露天風呂がある。全て入りきるのは難しそうだ。とりあえず、友人のルーティンに合わせることにする。

しばらくして露天風呂に向かう。4種類ほどある浴槽は、通常の露天と薬草湯、打たせ湯、そして歩行湯。歩行湯?と思い寄ってみると、足湯のようになっていて、足ツボを体験できる。中心にバーが設置されていて、痛みを感じながらぐるぐると歩くのだ。周回ができるスポットを目の当たりにすると、どうして人はやってみたくなるのだろう。メリーゴーランドだってそうだ。点Pは動き続けているのに、スタートとゴールは同じところ。ほとんどトマソンである。しかも痛みを伴う。だのに足は前へ前へと進み続ける。この後、薬草湯や檜湯、その他ほとんどの浴槽に行ってみたのだが、結局この歩行湯に戻ってきてしまった。あれだけたくさんの選択肢があった中で、1番長い時間を過ごしたのはここだった。しかもこの日は雨で肌寒く、足湯だけでは到底体が温まらないこの場所で、ただ1人歩き続けてしまったのである。

もちろん、サウナにも行った。遠赤外線の高温サウナは、100℃弱のいい塩梅。3段になっていて、10人以上は入れそうな広々とした空間になっている。入館時にもらったサウナ用のタオルをマット代わりにし、ぼんやりとテレビを見つめ、1セット目が終了。水風呂へ。広さと深さがある浴槽の水温は、20℃を切っており、最初から「整い」に入ることができる。水風呂に行かなくとも、広い露天スペースで外気浴も楽しめる。3セット目のサウナ室で、何年かぶりに会う友人が、室内で一言、話す。

「やっていかななあ。」
「そうね。なにが?」
「作り続けないと」
「そうか。」

「黙浴」に配慮したのだろうか、それだけで会話が終わってしまったのだが、それで何が言いたいのかはわかる。学生時代、2日酔いで授業も大して出席せず、適当に遊んでいたが、何かぐるぐると心の奥にしまい込んでいる鬱憤を発信していた。ブログやSNSのアカウントを作り、毎週なぜか集まって仕方のなさすぎる企画をし、バラエティ番組風の構成を立て、記録する。実行委員と癒着して、弱小サークルだのにステージに上がる時間をもらって文化祭で内輪ネタを披露、ダダスベリした挙句、「観客が悪い」と愚痴を漏らす。誰も知らないけれど、誰かが見ていると信じていた私たちは、拙いながらも、何かを作り続けていた。それが影響したのかどうか、私も大学主催の大きなイベントに参加させてもらったり、大学以外でもなにかしらの制作現場に足を運んでいた。バイトを何個も掛け持ちしながら、何かを作っていたあの時の情熱は、徐々に冷めていってしまったように思う。熱を何とか保っている先輩や同期の眩しさが、一度折れてしまった私を照らし続けている。

帰りの車で、友人は「お前はまだやれるんだよ、向いてるよ、目に浮かぶよ」と、ボソッと呟いた。あとは、家の近くで私を下ろして、「じゃあ、また。」とだけ言って、帰っていった。何もできない鬱憤を、歩行湯で晴らしていた私は、まだ諦めてはないのかもしれない。どれだけ頑張っても、スタートに戻ってしまうかもしれないけれど、歩き続けるしかないのかもしれない。同じ言葉を連呼すると、気持ち良くなってだんだん可笑しくなってくるように、「トマソントマソントマソン・・・」と発信し続ければ、誰かが可笑しいと寄ってくるかもしれない。自分で冷ました熱は、自分で付け直すしかない。それが、無用の長物であっても、堂々巡りであっても、この世がループする世界だったとしてもだ。

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