初めて推しに会った日 ~観劇レポ『凍える』~
初めて推しに会った日
22年生きてきて、初めて推しに会えた。芸能人の方に会ったことがなかったわけではなかったけれど、推しに会えたのは、推しを生で見たのは北九州での坂本昌行さんが初めてだ。
私の家庭は舞台観劇にそこまで興味のある家庭ではなく、FCに入ることさえ遠い世界の住人。(両親は歌舞伎やオペラは好きらしい。オーケストラの演奏会とかは行くけど、フェスとかライブには行かないっていうそういう、弟に至っては舞台とか音楽とか興味なし)ジャニーズのジャの字も知らないというか、私も正直、V6と出会うまではテレビで見かけたら見る、そんな感じだった。大学生になってからも推しは沢山いれど、どの推しもFCに入るのさえなかなか勇気がいるほどだ。けれど、こっそりお茶の間ファンをしていたV6が解散すると聞いて、それからどんどん沼にハマって……「推しは推せる時に推せ」という言葉を痛感した。そして、トニセンのFCに入り、福岡公演のなかったマーダーとOZは血涙流しながら諦め、やっと『凍える』で推しである坂本昌行さんの舞台を観に行けることになった。北九州公演、本当にありがとうございました。勿論、家族がそんな感じだから同伴者はいない。(友人を誘うのには舞台の内容が重いので躊躇した。今思えば、あんな凄い舞台、家族でも友人でも引きずってでも連れていくべきだった。弟は「え、一人で行くの?……僕を誘えばよかったのに」とか言っていたくらいだし)妙なところで一歩踏み出せない癖、治したいね、本当。次回、福岡での公演等で参加できることになったら、こんな私ですが、どなたか(フォロワーさん)一緒に行ってくれませんか?
そもそも、舞台に行くことすら初めてだったから前日から期待と不安(辿り着けるか)で胸がいっぱいで、早起きしないといけないのにAM2:00まで眠れず。ちょっとした一人旅(これも初めて)気分で特急電車に乗り込み、いざ北九州へ。北九州に一人で行くのも初めてで(初めてづくし)、地図を見ながら方向音痴もなんとか劇場へ到着。開場前に飲んだコーヒーで舌を思いっきり火傷したのも思い出に残るアクシデントだ。書いている今もヒリヒリしている。ま、旅にハプニングは付き物だよね!
座席に座り、今か今かとドキドキしながらパンフレットをパラパラめくり、「あっ……これ読みすぎるとネタバレ食らうかもしれないぞ」と至極当然の大発見をして、慌ててバッグに仕舞い込む。帰りの特急の中で読もうと思いながら。
そして、舞台が始まった。登場したアニータがバッグに向かって大声で叫んでいるのに「えっ……担当医でしょ? この人も精神科医に診てもらったほうがいいくらい精神的に何か抱えているように見えるけど……」と戸惑っていると、続いて被害者の母親ナンシーが登場。どこにでもいる主婦で、母親で、一人の女性という感じ。母親だけど、人間だから家族に対して色々思うことはあるよねって非常に人間味を感じる。良い子ちゃんなローナと女王様気取りのイングリッドには子どもらしさと母親に構ってもらいたい気持ちを放出するベクトルの違いに共感する。旦那は……うん。でも、きっとこの日のことを夫は父親として一生後悔することになっただろうし、彼は彼で罪を負ったわけだ。とにかくどこを切り取っても日常の一場面を切り取ったというほど普通、だけど所々で日常の中に潜む不穏さを醸し出していると背筋がゾクゾクするのは、この後に何が起こってしまうのかを観客である私は知っているからだろう。
そこへ遂に、遂に、スタイルが神すぎるシルエットが見える。思わず口が開いてしまう。マスクしていて本当に良かった。足長っ、細くも引き締まっている体、顔小さい、髪型好きっ、若々しくて赤似合うね、てか本当若いな、若いわ、20代後半から30代前半に見える、いやマジあのタンクトップ(?)から見えるおっぺぇ堪らんな、おしり可愛い、かっけーよ、やばいやばいやばい、と脳直で駆け巡っていくオタク思考。この間、わずか1秒、脳の処理速度ってすごいね。まさに人類の神秘。あの瞬間、スパコン並みの処理速度してたと思う。変態目線なファンでごめんなさい(土下座)
でも、そんな推しへの変態思考も一瞬のことで、その次の瞬間には悪寒がし始める。違う、ここにいるのは坂本昌行じゃないと体が先に分かる感じ、鳥肌が立って、思わずぎゅっと袖を掴んでしまった。まだ一秒しか経ってないし、何なら微動だにしてないくらいなのに、児童連続殺人犯ラルフがそこにいたのだ。歩いてくる、こっちに歩いてくる。蛇口をひねる。その一挙手一投足から目が離せない。口から飛び出てくるのは汚らしい言葉、かと思えば「ごめんあそばせ」と震えて怯えだす。明らかに精神に異常をきたしているラルフという人間が目の前で生きていた。ここから先は推し坂本昌行のことを完全に忘れて、作品、ラルフに狂い始める。
ちなみに私は観劇レポを読むのが好きで、今までの舞台(マーダーとかOZ)のレポを読み漁っていたのだが、共通して書かれていることに「坂本さんは舞台の上で日本人に見えない」というものがある。そうは言っても、坂本昌行は日本人ですよ? 八百屋の息子さん、末っ子さんですよ? そんな生粋の日本人が日本人に見えないとか、そんなことあるわけないで「日本人じゃないやんこの人! なんでそうとしか見えんくなっとーと!? 意味わからん」(観劇中の心の声)あれ本当だったんですね、坂本さん本当に日本人に見えなかった……外国人、ラルフだった。演技力、もはや才能、天才ってこういう人のことかとビビる。その場にいるだけで空気が変わるんだね。
それから色々なこと(ラルフが舞台下からバタンと扉を開けて出てくるとこ、去る時に足で扉を閉めていくところ、超かっこよかった。危ないところだった、絶対に惚れてはいけない危険人物に心奪われてしまうところだった)があり、20年の月日が経った。再登場したラルフは髪を撫でつけていて……ここで驚いたのはラルフの年齢が確実に20年以上経っていたことだ。髪型と服の色が地味になったかな程度の違いなのに。肌の質から違う感じ、え、なに、あの人、舞台中に肌の質まで操れるの? 天才じゃん。これ、冗談じゃなくマジなんです。観た方なら分かっていただけるはず。それだけでも浦島太郎状態というか、何なら劇場ごと20年以上時が経ったんじゃねぇかって自分のこと心配しちゃったくらいの衝撃だったのに、話し始めたラルフは彫ったタトゥーを見せびらかして自慢してくる。見せてくれなかった胸のやつ見たかったです。捲ってくれるかもとか、変態な私はちょっと期待しちゃいました(懺悔)下品な口調とか怯えだす感じとか、そこは20年前と変わっていないんだけど、なぜだかラルフの精神年齢はより幼くなっているような印象を受ける。もしかしたら、外見と中身の乖離が広がったからかもしれない。纏っている皮は年を取ったのに、その肌の下にいる中身は変わらない。このアンバランスさが怖くて、観てる私が凍りついて硬直してました。
舞台は尚も進み続け、思春期の娘だったイングリッド(演者はいないキャラクター)が一番最初に(精神的に)大人になる。それから担当医アニータの抱えている罪が何となく見えてきたところで、面会シーンへ。(都合上、めちゃくちゃ割愛してしまったけれど、牢屋に入ってからのラルフがさらに痛々しくて抱きしめてあげたい。変態だから「あんた、エロいだろ?」とかアニータに言ったり、大股開きでお下品なこと言ったりしてたの興奮してたけど。でもそういう皮で何層も覆うことで、弱くて柔らかくて傷だらけで崩れてしまいそうな幼い心を守っているのだと思うと、胸が痛い。体の怪我はある程度元通りに治すことができるけど、心は一度壊れてしまったらその部分は元通りには戻らない。時の経過やその後誰と出会うかで、少しずつ欠けた部分がやすりで丸く、自分が触れても怪我しないように整えることはできても。そのことを改めて考えさせられた)面会シーンについての解釈はまた後で詳しく書きたいと思うが、このシーンでのナンシーとラルフの演技が凄すぎるので必見。この魂のぶつかり合いというか、咆哮というか、言語化できないほどの衝撃を受けた。初めて観に行った舞台がこの舞台で本当によかったと心の底から思った。このシーンは脳内スクリーンに色濃く焼き付いていて一生忘れないし、『凍える』という名を聞いた時に真っ先に思い出す場面だと思う。フラッシュバックのところなんてあまりにショッキングで……舞台ということさえ忘れて硬直していた。父親や母親が見えた。そこにはラルフしかいないのに。観客である私もまたラルフを通してラルフの過去をフラッシュバックしている恐ろしさ。ごくり。生唾を飲み込む。
そして、マイムマイムが鳴る中で、ラルフはごめんなさいと手紙を書く。音楽をやめろと怒鳴りながら……苦しい、苦しい、ごめんなさい、違う、ごめんなさい、やめろ、苦しい……色んな感情や思考の渦の中で。彼の中の寒風吹きすさぶ氷原の氷が溶け、そこから溢れ出した水が彼を溺れさせていくかのようで、私は見ていてつらかった。(追記:マイムマイムって開拓地で水を掘り当てた人々の喜びを歌った曲じゃないですか。ラルフの氷原の氷が溶けて水が溶け始めた、その下の水が掘り当てられたみたいな感じなのかな。それにマイムマイムは輪になってぐるぐる回りながらステップを踏んで踊るじゃないですか。ラルフが色々な感情とか記憶とかに囲まれて渦のような濁流に飲み込まれていく感じが連想されて……)ラルフは「悪」だが、生まれながらの「悪」だったとは言えない。彼を「悪」にしたのは、彼を「悪」と判断する我々のほうだったのではないか。彼を虐待した両親だけじゃなく、それを見て見ぬ振りした、目を背けた、気付かなかった我々なのではないか。そしてラルフは自ら命を絶った――。
最後に、墓地で、ナンシーとアニータが会話をする。そこでやっとアニータが抱えていた罪の全貌が明らかになる。関係もそこまで深くないナンシーにプライバシーな悩みを吐露するのはおかしな話かもしれないが、たぶんそんなナンシーだったから誰にも言えない秘密を吐き出せたのだと思う。思えば、ラルフもプライバシーな記憶をあそこまで吐き出したのは担当医のアニータではなく面会時のナンシーにだった気がする。ナンシーの母性に由来するのかもしれないけど、やっぱり抱えているものが隠しておきたいものであるほど身近な人には言いにくいものだ。実は家族のことを家族が一番知っているようで案外知らないのかもしれない。懺悔室で罪を告白し、懺悔するように、アニータはナンシーに共同研究者のデイヴィッドとの罪を語った。そして、そのことによって、彼女が自分を許すまではいかないまでも、凍ったままだった自分を溶かし、自由になるための第一歩を踏み出したのかもしれない。ナンシーとアニータはこのラルフという氷原の探索の最後に、これからの光を見いだしたのだ。
スタンディングオベーションの中、何度も何度も三人が出てきて深々と挨拶をしてくださった。3回目くらいまでは正直、まだラルフだった坂本さんも、4回目辺りから徐々に坂本昌行に戻っていく。そのグラデーションを見られたのも嬉しかった。舞台だからこそ見られるものですよね!
書き忘れていたので書きますが、舞台の途中でラルフと2回、目が合いました。(他の推しが「目が合ったと思った時は本当に目が合っている」と言っていたし、席が近かったので本当に目が合っていたんだと思います)普通は推しと目が合った時は胸のときめきを感じると思うんですよ、ましてや初めて推しに会えた日ですし。だけど、この2回はどちらも児童連続殺人犯ラルフと目が合ったので喜び以上に恐怖が勝っていて硬直しました。今度もしツアーが当たって会いに行くことができましたら、その時また目が合いますように。
放心状態で帰り道、気付いたら特急に乗っていた。(怪奇現象か)私はバッグからパンフレットを取り出すと、劇場でここまでとやめておいた続きからじっくり余韻を味わいつつ読みこんだ。(一人だったので共有できる人がおらず、読むしかなかった。本当はこの後カフェとかで語り合いたかった)稽古中の写真を見て、ニヤニヤ、このかっこよすぎる男がついさっきまで目の前にいたんだぜ、このギラギラとした瞳と目が合ったんだぜ、推しと人生の一瞬共有したんだぜ……。そんなことを考えていると、あっという間に駅に着き、帰宅。両親に感想を聞かれ、「言語化するのが難しいんだけど……」と前置きした後でのマシンガントーク。「まあ、楽しかったならよかったね」と笑われつつ、思い出を噛み締めました。
そう、これが私が推しと初めて会った日です。
『凍える』の個人的な解釈という名の妄想
ここからは、お前は何様だってくらい偉そうに『凍える』を見ての解釈というか妄想をただひたすら語り続けます。ラルフに狂った女が観劇した日の夜、眠れずに書いた文章です。初めての舞台観劇のくせに偉そうで本当にごめんなさい。どうかお許しください。
↓ 以下、夜中にラルフ狂い女が書いた駄文です。
ラルフには共感できない。これだけは言っておかなければならない。これは幸福なことなのかもしれないし、このことが問題なのかもしれないが。とにかく、私はラルフには共感できない。だけど、知りたいとは思った。彼が何を考え、何を考えようとしないのか、もしくは何を考えることができないのか……ということを。だから、これはただの私の解釈と言う名の妄想であって、それ以上でもそれ以下でもない。見当違いなことかもしれないが、それを敢えて恐れず、感じたままに書き散らしてみようと思う。そう思わせるだけのパワーを持った作品、演出、演技だった。
ナンシーは何を「許し」たのか
人は何を許し、何を許せないのか。作者であるブライオニ―・レイヴァリーはこの問いに対する思索としてこの作品を書き始めたという……。
被害者の母親であるナンシーは物語の後半で、娘を殺した犯人であるラルフと面会する。面会することが双方にとって良くないことである(担当医であるアニータが止めた)にも関わらず。しかし、「会う・会わない」の選択権は当然ラルフにはない。ラルフはただ座って、時が過ぎるのを待っていたはずだ。そこに罪悪感、良心の呵責というものはない。「はい」「ありがとう」中身のない空っぽの言葉しか返さないように、ラルフには母親であるナンシーにも、被害者であるローナにも共感できない。あの写真を、ローナの写真をナンシーに見せてもらい、彼女の家族と自身の家族の違いを痛感し、それから凍らせたまま閉じ込めていた過去の被虐体験を引きずり出され、自身がやったことは自身が受けた行為と同じことであると気付かされるまでは。その時、ラルフは自分が殺した少女に共感したのだ。だから、彼はその後、謝罪の手紙をとりつかれたように書いたり(この手紙のシーンについてはもっと深い意味があり、断言できない。そこについてはまだもう少し考える必要がある)、急に胸が痛むようになったり……終いには自ら命を絶ってしまう。ナンシーの面会によってローナに共感してしまったが故に、凍りついた氷原にいたラルフはその雪解け水の濁流によって溺死したのだ。(ラルフの死については後述)
ナンシーは面会の時にあなたを「許します」と言った。でも、彼女は本当に許したのだろうか。何をもって許したと見なすのか、そこが問題だ。ナンシーは何を許したのだろう、ローナを殺したラルフのことを? だが、「許します」と言う彼女の声は震えていたし、面会シーンで彼女とラルフの間に落ちる影を踏み越えるのを躊躇する様子も見られた。娘を殺したこと、その罪に関してはその言葉を発した時点ではまず間違いなく許せてはいない。正直、私はこの面会時の「許します」はラルフへの言葉ではなく、自分のために発した言葉だと思った。前に進んでいいのか、あの時から凍りついた自身を溶かして自由になってもいいのか。それを自分で自分に「許す」ための「許します」なのだと。ナンシーはラルフを許してはいないし、復讐を果たそうとしたわけでもない。葬式は遺族が準備し見送る過程の中で、大切な人の死を徐々に受容していくための儀式でもある。あの面会はナンシーが前に進むために必要な儀式の最後の一つだったのだと思う。
ラルフは何者だったのか
ラルフは凍てついた氷原にポツンと一人取り残され、膝を抱えて小さくなっている少年、私の中の抽象的な彼のイメージだ。姿こそ大人だが、中身は虐待を受けた子どものまま、凍りついている。
彼が「悪」であることは間違いない。虐待されたという過去があったからといって、21年にも渡る児童連続殺人事件についての罪が消えることも、軽くなることもない。やったことは紛れもない「悪」だ。そこは絶対に肯定してはいけない。だが、果たして彼は生まれたその瞬間から「悪」だったのだろうか……?
ラルフの子ども時代は被虐体験の断片的なフラッシュバックやラルフの普段の様子からしか読み取ることができない。なぜなら、彼自身が語った子ども時代の思い出話は信頼できない語り手によるものだから(本当と嘘が入り混じっていたり、支離滅裂だったりするのは無意識に記憶を改ざんすることで自分を守る防衛機制でもあり、無意識のうちに虐待をしていた両親を庇っているようにも感じられる)である。物語の後半、面会シーンでフラッシュバックした虐待の内容は書きたくないほど惨い。それにパーソナルスペースに踏み込まれることに対して過度に怯える様子やそれでいて震えて小さく縮こまりながらも視線だけは相手のことを窺っている姿、「クソババア」などと人に対して口汚く罵った時のみ「ごめんあそばせ」と狂ったように誰かに許しを請う姿……。中でも「ごめんあそばせ」は彼のボキャブラリーでは異質で、明らかに自分ではない誰か(女口調であることから恐らく母親)から学習した言葉である。口にするたび、その異質さに彼の精神破綻と深い傷を感じ、恐ろしくて悲しかった。そして彼は時折幼い言動をする。頭の傷を「ここを見て?」とアニータに見せた時……。
殺人という「悪」を犯したラルフは、果たして虐待が肯定されるほどの生まれながらの「悪」だったのだろうか。答えはNOだ。殺人が肯定されないのと同様に、虐待もまた肯定されない。生まれながらの「悪」が存在するか否かに限らず、虐待が「しつけ」などと肯定されることなんて絶対にない。ラルフは「悪」を犯した加害者であり、「悪」に犯された被害者でもある。そして共感できないが故に共感されることもない。愛を知らない。登場人物の誰よりも孤独な人、それがラルフだったのかもしれない。
彼は舞台途中で彫ったタトゥーを見せながら自慢する。その中でも唯一のオリジナルデザイン、天使と悪魔の戦い。理性と衝動のせめぎ合いの象徴でもあるそれを自らデザインしたという事実が胸を突き刺す。ラルフはもしかしたら単純に「カッコイイだろ?」と笑うかもしれないが……。
ラルフは何に殺されたのか
「悩んだ末にではない」と言い残して、彼は自ら命を絶った。担当医のアニータはナンシーとの面会が原因だろうと言う。でもそう言うアニータも胸が痛むと苦しむラルフを知っていながら、無情に「さようなら」と去っていった。プライバシーな部分にズカズカと土足で踏み回ったにも関わらずだ。結局のところ、彼女にとっての面会はラルフに歩み寄ろうとか更生へ導こうとかそういうカウンセリングではなく、本当にただの実験だったわけだ。「さようなら」と言われた後、ラルフは寝そべったまま死んだように硬直していた。
ナンシーには娘のイングリッドが、アニータにはナンシーが、それぞれ前へ進めるきっかけになりうるような言葉を掛けている。話を聴いてくれる相手がいて、その相手が共感したり、寄り添ったりしてくれる。そんな存在がラルフには終ぞ一人も現れなかった。アニータは実験をしていただけだし、ナンシーも前に進む儀式として「許し」ただけ。虐待をしていた両親がそんな存在だったはずもなく、墓地に来る人も少ない。孤独。あまりにも孤独。でも少ないだけでゼロじゃなかったんだから、独りぼっちではなかったのかな、そう思いたいだけかもしれないけど、うん。
ラルフは自覚した良心の呵責によって死を選んだのだろうか。それとも引きずり出された記憶にもがき苦しんだ果てなのだろうか。自身の孤独に気付いてしまったからだろうか。
私は複合的なものだと思った。子ども時代に凍ってしまった氷原にずっと一人でいたラルフ(少年)はその氷が溶けて(大人になり)、その雪解け水の濁流に飲まれて溺死した……のかもしれない。
「悩んだ末にではない」と言うラルフはそれまでのラルフとは明らかに精神年齢が成長していた。そもそも自分で死を選ぶ理由なんて自覚的なものから無自覚的なものまでいくつもあるもので、それを「なぜ?」と問うこと自体が意味のないことなのかもしれないけれど。それでも残されたものは、それを見届けてしまった観客は問わずにはいられないのだ。ラルフという人間が何者か、知るために。
最後に
私は一度しかラルフに会うことは出来なかったけれど、一度でもラルフに会うことができてよかった。
ラルフがやったことは肯定できない、肯定してはいけないことだが、ラルフという人間の全てを否定することは私にはできない。
ラルフを人間として生かしてくれた坂本昌行さん、ナンシーとアニータを生きてくれた長野里美さん・鈴木杏さん、携わったスタッフの方々、作者であるブライオニ―・レイヴァリーさん、そして演出家の栗山民也さんのおかげで、素晴らしい舞台に出逢えました。ありがとうございました。
またいつかお会いできるのを楽しみにしております。
長文失礼いたしました。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
追記: レポ絵を描いたので載せておきます。