学習はワクチンではなく、効く薬
「効率がいい」というのは、効率が悪いことのブレイクスルーである。だから、最初からその状態を望むのはナンセンスだ。
何でもかんでも転ばぬ先の杖を用意すればいいというものではない。擦り剥いて痛い思いをしながら学ぶこともある。むしろそっちのほうが大切だったりする。
学習という行為を語るとき、多くの大人は「失敗しないように学んでおく」という文脈で語る。100点を取るために学ぶのだと。
すると、失敗した際には自分の無学を嘆いて終わってしまうのだ。40点を取ってしまった暁には、もはや取り返しがつかない気がする。そういう人は早い段階から学習から身を引いてしまう。
そうではないだろう。人生は転んで擦りむいて、血を流してからが勝負である。「さぁ、どうしたものか。これでは話にならんなぁ(苦笑)」となってから、人は思考し始めるのだ。
予めワクチンばかりを打つように学習していて怪我も病気もしたことがない(酷い点数を取ったことがない)人には、これができない。それが、思考停止した無能な官僚どもである。
奴らは無傷のままだからダメなのだ。それはある意味学習を投げ出したのと変わらない。
もしくはちょっとの傷で酷く痛がる。ちょっとした病で床に臥せる。実に生ぬるい。
生ぬるい大人が生ぬるい子供を育てて、生ぬるい国になっている。「100点を取りなさい」とは言えても、40点からどう這い上がるかを知らない。
すぐに、諦め、見切り、投げ出してしまう。考えることができない。それは学習を馬鹿にならないためのワクチンだと思っているからだ。
しかし、実際のところ学習は、自分が馬鹿だと気づいてからやる方が何万倍も面白いのである。
腑抜けた大人など放っとけ。奴らは死ぬまで分からない。自分が腑抜けだということを。だから当てにするな。
学びたいだけ学べばいい。その分、世界がよく見える。その分、私の言葉の意味がわかるだろう。