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地元LOVE!がちょっとキツい理由

僕は神奈川県茅ヶ崎市の出身です。10代まで茅ヶ崎で暮らしましたが、年月も流れ、もはや「茅ヶ崎が地元」とは思えません。近年はずっと新宿・中野界隈に拠点を構えているので、旅先から戻って新宿の街の光が見えるといつもとほっとします。かといって、「地元に帰ってきたぞ」とは思いません。

知人から「地元の友達」や「地元のお祭り」の話なんかを聞くと、自分には地元がないな…とちょっと寂しくなります。かといって「地元LOVE!」という感じのコミュニティにも居場所が見つからないように感じています。あなたはどうですか?


みんなで盛り上がれたらいいけれど

僕は子どもの頃から、「周辺の人」でした。小学生の頃、教室で何か楽しいことがあって輪ができると、僕は大抵その輪の外側の縁あたりにいました。壁によりかかっているとか、教室を抜け出すとか、そういうはっきりとしたキャラの立った離脱ではなく、輪の外側にいて起きていることが完全に把握しきれないまま、頼りない笑顔で呼吸している──そういう感じ、わかりますか?

メインストリームには留まれないけれど、みんなと楽しく過ごしたいという願いはある。その結果、「周辺」にいるわけです。

「地元が大好き!」「地元の仲間が一番!」と盛り上がっている人たちは、僕にとっては輪の中心の人々、メインストリームにいる人々に見えます。実際は色々な人たちが色々な思いを抱えて存在しているはずだけど、解像度が上がらなくて、僕にはそんな風に見えるのです。

地元LOVEの“キツさ”について考える

入っていけない…と特に強く感じる様子は、サッカーの地元チームに対する熱狂的な応援なやつです。地元LOVEとは微妙にレイヤーが違うのかもしれませんが、僕にはあまり区別がつきません。

スタンドにいるチームのサポーターが、敗戦した監督や選手に怒号を叫んでいる様子がスポーツニュースなどで映し出されると、こんな疑問が浮かぶのです。

この人たちは、本気で怒っているのだろうか? それとも、ヨーロッパなど歴史の古い地元チームに対する熱狂的なサポーターの姿を模倣して、怒号を飛ばしながら「本場のサポーターみたいじゃない?」とドヤっているのだろうか? 一体、ここにはどんな地元LOVE(別物だったらごめんね)があるのだろうか…???

地元LOVE、難しいです。

地元とつながり方は自由でいい

メインストリームにはうまく馴染めないものの、僕も自分なりに楽しんで地域で暮らしていきたいと思います。最新の拠点は中野にあって、西武線の「沼袋」という渋い駅が最寄りです。沼袋、気に入っています。

地域のお祭りがあることは、いつも開催日に会場の前を通りかかって知ります。借りている駐車場がお祭り会場の目の前で、車を出すのに苦慮したことも(笑)。お祭りはあまり楽しめません。

でも、好きなお店は増えて、よく行くお店の人とは知り合いになっています。僕としては、それで構いません。地元LOVEまでは思わないけど、住んでいる地域を好きですし、住めば都と思います。

そして、こんな僕のような人間を、大味な「地元LOVE」の勢力は捕捉していないはず。つまり何が言いたいのかというと、地域には、多様なレイヤーがあり、いろいろな人が住んでいるということです。

地域には多様なレイヤーがある

僕は「場づくり」の専門家なので、例えば「まちづくり」みたいな感じの現場も多いんです。「お前が?」と驚かれるかもしれませんが、僕のような人間の方が、客観的に地域や場をとらえているとも思います。

よく「◯◯さんに聞けば、この地域のことは何でも分かる」なんて言いますよね。でも、そんなことはありません。「仲間うち」のことに精通していても、地域のことは何でもなんて無理なのです。人間業じゃないです。
また「この地域は、◯◯な地域です」みたいに、地域の傾向を述べる人がいます。それこそ、まちづくりみたいな仕事をしている人に多い。でも、「あなたから見たら…ですよね?」と思います。実際にそうだからです。

地域には多様なレイヤーがある。目立つレイヤーだけが全てじゃない。これって、大切な認識だと思うのです。


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長田英史(おさだてるちか) / NOT SHIP
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