僕が「宗教づくり」を始めた理由─オルタナティヴ宗教の可能性
企画会議をしていて、「宗教づくり」というアイデアが出てきた瞬間、声を上げて笑いました。僕がその言葉を口にすると、他のメンバーも「何それ!」と楽しそうに笑いました。宗教づくりだなんて意味不明だし、明らかにヤバすぎるのに、わくわくする冒険が始まる幸せな予感に充ちていました。
設立27年目のNPOです
僕が代表をしているれんげ舎というNPOは、活動を開始して27年目に入りました。学生の頃、子どもの居場所づくりや大人が自分らしく居られるコミュニティづくりをしていて、卒業後は就職せずに団体を設立し、それを仕事にしました。
あれから四半世紀、そうした活動のパイオニアだとか「場づくり」の専門家だとか、そんな風に見てもらえるようになり、実践者としてあちこちで仕事をしてきました。
「なんかいい感じに名前が売れて、いい感じに儲かるようになってきちゃった…!」
そう思っていました。でも同時に、コレジャナイ感が募ってきました。コロナ前の数年間は忙しく、全国150箇所で講演しました。いつも全力でやりました。全力など求められないゆるい現場でも、精一杯やりました。「行きたくないな」と思った仕事は、ひとつもありませんでした。
でも、やっぱり、コレジャナイ。
自分たちが長年続けてきたことが認められて、それが仕事になって、ちゃんと食べていけている──この事実は僕や僕の仲間を励まし、新しい自信を与えてくれました。でもその自信はいつしか、チープな檻か箱庭のようになったのです。
本当にやりたいことを自由にやれるとしたら?
そんなわけで、その夜も経営企画室のメンバーが集まり、「これから先」について話し合っていました。
「現状は出来すぎなくらいだよ。自画自賛みたいだけど、団体としては本当によくここまで来られたと思う」
「本当だね。この調子でどんどん事業を大きくして利益を増やして…というのが普通だけど、何だろうね、この感じは…」
そう振られて、僕は立ち上がってウロウロしました。その方が良いアイデアが浮かびそうな感じがしたからです。身体がむずむずして、何かが出てきそうな感じがしました。そして、ぐっと集中したら、突然口からこんな言葉が飛び出しました。
「宗教をつくるっていうのはどうかな!」
意味不明な発言に驚きながら、可笑しくて笑いました。
「何それ!」
「しゅうきょう? 面白そう!」
なぜ「宗教づくり」というアイデアが出てきたのか、中身が不明なのに何がそんなに面白そうだと感じたのか、今でもまったく理解出来ません(笑)。
僕が「宗教っぽいもの」を警戒する理由
正直な気持ちを言うと、「宗教をつくろう」なんて言っている人とは「ちょっと仲良くなれなさそうだな…」と感じます。どうしても警戒心を持ってしまうからです。その理由は、カルトの不気味さ、そして恐ろしいテロを目の当たりにした経験があるからです。
1995年、僕は23歳。この年は2つ大きなことが起こり、ひとつは「阪神淡路大震災」で、もうひとつは「地下鉄サリン事件」でした(ちなみに、この翌年、僕は仲間とれんげ舎を設立しました)。
まず、1月の阪神淡路大震災。空襲にあったような神戸の街の光景が、忘れられません。テレビでは亡くなった方々の氏名と年齢だけが延々と読み上がられていて、18歳とか7歳とか若い自分よりも年下の人々が大勢亡くなった事実に直面し、僕は言葉を失いました。どう考えていいのか分からず、知らない人ばかりなのにずっと泣いていました。
そして、2ヶ月後の地下鉄サリン事件。人がカルトに洗脳され、“権威ある人間”の言葉だけを盲信するようになると、ラッシュの地下鉄車内で兵器級の毒ガスを散布出来るという事実に、戦慄を覚えました。オウム本部に強制捜査が入る映像は、戦争映画みたいで非現実的でした。物々しい装甲車や警察車輌の長い車列の先頭には、小さなカナリアがいました。
「宗教=カルト」などという、極端な偏見はありません。でも、こうした経験が、僕が「宗教っぽいもの」に対して警戒心を抱く理由です。
そんな僕が、まさかまさかの「宗教づくり」です。
カルトは怖い、隠れカルトはもっと怖い
「宗教づくり」のコンセプトや内容をお話する前に、「カルト問題」について、お話しさせてください。この問題を脇に寄せてはこの取り組みは成立しないし、勘違いした人とつながりたくないからです。
カルトの本質は、「他人に決定を委ねる態度」だと、僕は考えています。どんな教義があろうとも、無差別テロの引き金(地下鉄サリン事件のそれは、グラインダーで尖らせた傘の先端を、薬液の入った袋に突き刺すことでした)を引いてはいけないのは、考えれば分かるはずです。
見ず知らずの大勢の人を、自分が殺そうとしている。その場面に直面して、自分で考えれば、犯行を思いとどまれます。でも、それが出来なかった。そんな大事なことまでも、決定を他者(この場合は教祖)に委ねてしまっていたからです。
勧誘の巧みさ、洗脳の執拗さ、カルトの手法には改めて指摘するまでもなく大きな問題があります。でも、本当に越えてはいけない一線、明け渡してはいけない一線は「自分で考えて、自分で決める」という独立性です。それを奪われた(差し出した)結果が、あのテロにつながったと考えられます。
「だから、カルト団体って怖いよね!」
その通りなのですが、“権威”や“上の人”の言うことに無批判に従ったり盲信したりしている人って、カルト団体にしかいませんかね…?
「みんながそうしているから、とにかく自分も同じようにする」
「偉い人がそう言うから、理由は分からないけどそうする」
「強く命じられたから、考えずに従う」
こうした態度は、日本社会にたくさんあります。死ぬまで働かせる会社と、働いてしまう社員。暴力で支配する夫(妻)と、その配偶者。言うなれば、会社カルト教、家族カルト教──。
あからさまなカルト団体は分かりやすいですが、隠れカルト化した集団・組織も、たくさんあるはずです。人が自分らしく幸せに生きることを疎外する力、そうした願いを挫き支配しようとする力、他者の生き方をコントロールしようとする力は、そこかしこに存在しています。
からの…「宗教づくり!」 その内容とは?
…と、すごくマジメなトーンでカルト問題について書いてしまいましたが、マジメに語らなければならないことってありますからね。この問題は、僕にとってそれに当たります。
カルトは怖い。隠れカルトはもっと怖い。
そう考える僕がイメージする「宗教づくり」は、とてもユニークなものです。完成すると「宗教」じゃなくなっちゃうかもしれないけれど、とりあえず「宗教づくり」として始めます。
1.自分らしく世界とつながる!
れんげ舎の理念は「ありのままの自分で世界とつながろう」です。「自分らしく存在すること」と「他者・組織・社会・世界とつながること」を両立させよう、という意味です。
自分らしくなることで、社会から切り離される。
自分らしさを押し殺すことで、社会とつながれる。
こうしたよくあるパターンを拒否して、「自分らしく」と「世界とつながる」のハイブリッドを実現しようとしています。この夏に始まった「生き方開発lab」も、それに本気で取り組むための事業です。
2.常識のひとつ下から「生き方」を見つめられる!
「宗教」というのは、仕事や生活の根っこである根源的なことにフォーカスしていますよね。「生き方」に真正面から取り組むとき、普段は「土台」となる「常識のレイヤー」を可視化し、その「ひとつ下」から見つめ直す必要があります。
でも、日本社会って「無宗教」とか、「家は◯◯教だけど自分は関係ない」と考えている人が多いですよね。僕自身がまさにそのパターンです。でも、仲間といろいろ研究してみると、いわゆる「入信している信者」は少なくても、日本の常識が歴史的に宗教から強い影響を受けていることも分かりました(この話はまた今度!)。
いずれにしても、それが本当の意味での「宗教」ならば、生き方を根っこから問い直すことに応える力を持っているはずです。
3.「世俗的じゃないこと」が思いっきり出来る!
「生き方」に真正面から取り組むなんて、ありそうでなくないですか?「生き方について考えてみましょう」的なワークショップみたいなのは色々ありそうですが、
「キャリア形成について考えてみましょう」
「教育資金や老後の資金をどう考えてる?」
「あなたの好きなことを仕事にしましょう」
みたいなのばかり。とっても世俗的。
そうじゃなくて…、と僕は思うんです。
キャリアとかお金とか好きを仕事にとかの、「ひとつ下」にあるレイヤー、価値観の下にある土台=生き方を扱いたいのです。そういうふか〜い話、ちゃんと話せる相手とちゃんとしたくないですか?
4.宗教法人というフォーマットが面白い!
「宗教をつくろう」と思いついたものの、「そもそも宗教って…?」と仲間と色々調べたり勉強したりしました。面白かったのが、文化庁が出している「宗教法人運営のガイドブック」です(*PDFリンク)。お寺とか神社とか教会とかの運営者向けに、宗教法人運営の要件がまとめられています。
まず、「宗教法人法の基本理念」がなかなか興味深いです(各項目の解説は僕の要約です)。
信教の自由と政教分離の原則…憲法で保障された信教の自由と政教分離の原則、ここが基本中の基本だよ。
聖・俗分離の原則…宗教法人は宗教的事項と世俗的事項のハイブリッド。宗教法人法は世俗的事項について定めたものだよ。
自治の尊重と自律性への期待…宗教活動を自由にやってもらえるようにするから、自主的、自律的に運営してよね。頼むよ!
性善説…宗教は国民の道徳基盤を支えるものだよね?宗教法人 には非違行為はない…よね?
いま話題の「政治権力と宗教の癒着」が、いかに根源的な問題なのかわかりますよね。
続いて面白かったのが、「宗教団体の要件」です。4つあります(解説も含めて引用です)。
教義をひろめる…宗教なら、当然、教義があるはずです。また、 単にあればいいというのではなく、それを人々 にひろめる活動をしていなければなりません。
儀式行事を行う…宗教活動の一環として、日頃から儀式行事が行われていなければなりません。
信者を教化育成 する…教義の宣布によって信者を導くことが行われ、 信者名簿等も備わっていなければなりません。
礼拝の施設を備える…邸内施設ではなく、公開性を有する礼拝の施設 がなければなりません。
いかがですか? 僕はなんだか触発されましたよ。僕には親しみのあるNPO法にも通ずるところがあるなと思いました。公益活動ですからね。
要するに、①教義があってそれを広めつつ、②日常的に儀式行事をやっていて、③教化育成も抜かりなくやって、④ふらっと入れる礼拝施設がある、というのが宗教法人法における宗教団体のフォーマットです。
ちなみに、礼拝施設は賃貸じゃダメらしいです。ハードル高っ!
5.古くて新しい「オルタナティヴ宗教」をつくろう!
…というわけで、長くなりましたので、そろそろ切り上げます。
当面は、「宗教の基本」もしっかり学びながら、同時に上記フォーマットに沿って「場づくり」をしていきます。悟りを開いた人も神も教祖もいませんが、思いをもった人々がフラットに集まれば、それで十分ですよね?
教義なんかは「教義委員会」とかを組織して、ゼロベースでまずプロトタイプをつくりたいと思っています。「2022年度教義」とかにして、年度末にふりかえって、「ちょっとあの教義は行き過ぎだ」とか「この教義は、正直何言ってるのか分からない」みたいな議論をし、「2023年度教義」に更新したらいいかな〜と思っています。
「正解」なんて誰にも分かりませんからね!
儀式は「儀式開発チーム」とかを作って、色々やってみたいですね。集まってやる儀式、一人でやる儀式(my祭壇&my儀式)、それぞれ開発出来たら楽しそうです。とはいえ、形だけ整えれば形骸化し、いつしか盲信や権威主義につながりかねません。だからこそ、「自分らしさ」や「自分の本心・初心」に立ち返れるような、実感の得られるものがいいですね。
興味ある人はとりあえずメンバーシップに登録を!
さて、そんなわけで、本日より「宗教づくり」を始めます。
「楽しそう!」
「興味あるよ!」
という方は、当面は「生き方開発lab」のメンバーシップにご登録ください(「生き方開発labメンバー」って書いてあるやつです)。
最後に、ちゃんと誤解されぬよう書いたつもりだけど、よく読まない人もいると思うので、はっきりと確認です。
\こんな人には合いません/
□現実的なことは考えたくない
□落ち込んでいるので誰かに頼りたい
□スピリチュアルな体験や興奮を求めている
くれぐれもお間違えのないようにお願いします。
新しくて自分らしい生き方を創造するための、ユニークな冒険。理屈じゃなく、「面白そう!」と感じた方は、ぜひご一緒に!