人生を奴隷として楽しむ?それとも自分自身として?
「普通」に暮らしていても、色んなことを強いられる日本社会。様々な選択肢を予め限定され、その中で生きる様は、一種の「奴隷状態」とも捉えられます。奴隷は奴隷なりの楽しさを見つけるしかないのでしょうか。
すっかり日常化された支配構造
朝から晩まで働いても、ギリギリの生活を強いられる──こんなことが、当たり前のように見られる日本社会になりました。ギリギリの生活は忙しく、生活そのものを見直す機会はなかなかありません。
こうなると、衣食住もすべて相応の選択肢の中から選ぶことになります。
もちろん、安い家賃で住める住居はあります。食料品だって安いものがあります。服だって、安価なものが用意されています。ギリギリの生活は、破綻ぜずちゃんとギリギリで成り立つように、周辺が整えられています。
その結果、ギリギリはギリギリなりに慣れていきます。それを「当然のこと」と考えるようにもなってきます。生活の基本的な選択肢を制限され、その中で生きるように実質的に強制される日本社会では、「普通」をやっているはずが内実は「奴隷状態」になっているとも考えられるのではないでしょうか。
奴隷としての幸せを追求してしまう恐ろしさ
僕は、自分が奴隷だったら…と想像するんです。違う時代の違う国の、社会的に位置付けられた本物の「奴隷」です。
苦しいこと、悔しいこと、情けないこと、プライドを打ち砕かれること──嫌な思いをたくさんすると思います。親が身近にいるのかどうか分かりませんが、親だって奴隷でしょう。友達だって、奴隷の友達に限られるはずです。奴隷という身分からは、生まれてから死ぬまで逃れられない…。
そうなると、僕はきっと、奴隷なりの幸せを追求すると思うのです。笑い合う時間や、現状であるもので楽しむ術を探すようになるはず。
つまり、奴隷になってしまえば、奴隷は奴隷としての幸せを追求するようになるし、奴隷が奴隷なりの幸せで満足したら、支配は完成します。
いまの日本社会で起きていることは、もしかしたら「奴隷なりの幸せ」を追求する段階に、支配のフェイズが移行しているということなのではないでしょうか。
富裕層って本当に富裕層なのか問題
「ギリギリ」というのは意外に範囲が広くて、生活保護寸前もギリギリですし、そこそこの給与を得ているような場合でも相応の「ギリギリ」が用意されていたりします。
富裕層向け、みたいに言われているサービスも増えていますが、「富裕層」という言葉の響きに惑わされて、ギリギリのところで“富裕層”をやっている人も多いと思うのです。
富裕層とまではいかなくても、例えば「プラチナ会員」みたいな言い方で、「あなたは選ばれた特別な人」というメッセージを出し、承認欲求に訴えるサービスも増えていると感じます。
家賃や食費がままならない貧しさだけでなく、いわば「洗練された貧しさ」のようなものが出てきて、被支配層は拡大を続けています。
自分自身として自分の人生を生きるために
自分ってある意味奴隷なのかも…という話って、楽しくないですよね。でも、少しずつ変わる社会構造に慣らされてしまうと、本当に奴隷になってしまいます。
自分自身として生きるために、内省している人は多いと思います。でも、内省ばかりして自分の内的課題にだけ集中してしまうと、こうした社会状況では自分を見失うことにつながりますよね。
自分を取り巻く社会がどのようになっているのか、そういうこととの関係で自分を捉えることも、自分が自分であるために必要なことだと言えます。