あなたにとっての「透き通った本当の食べもの」とは?
「透き通った本当の食べ物」とは宮澤賢治の『注文の多い料理店』序文に出てくる表現です。いわゆる食べもののことではなく、本当にその人の力になる、魂の食事みたいなニュアンスだと受け止めています。そして、それって何だろうな…と近頃思うのです。
本当に元気にしてくれるものって…?
『注文の多い料理店』の序文には、こんな一節があります。
日本社会はとても貧しい社会になりました。
賢治がいたのも、東北の貧しい小作農がたくさんいる地域でした(宮澤家は質屋をやっていて大変な金持ちでしたが)。その後、高度経済成長を経て日本は全国的にかなり豊かになりますが、令和の時代に入り、食べるのに困る人が増え続ける貧しい社会になりました。
本当に貧しい社会では、実際に口に入る食べものが必要です。でも、それが最低限行き渡れば良いというわけではないと、この一節はうったえてきます。
経済的に豊かでも死を選ぶ人がいる
「そんなふわふわしたことを言っている場合か、とにかく金だ!」
そう思う人だっているでしょう。それはそれで、ひとつの正論だと僕も思います。ただ、人は十分に食べものがあっても、生きられない場合があります。経済的に非常に豊かで、名声を獲得したような人でさえ、死を選ぶことがあるからです。
コロナがやってきて、いろいろなことが相対化されました。社会生活の連続性があちこちで途切れました。頭の中で以前とそのままつながっている感じで補正しているだけで、実際にはあちこち途切れていると思うんです。
ひとつ下のレイヤーを見つめて
先日、朝起きたら「透き通った本当の食べ物」というフレーズが浮かびました。夢でもみていたのか、突然浮かびました。
コロナ禍で多くの人が大変な思いをしています。何が大変なのか、その大変さは人によって違います。でも、多くの人にとって、それは「新しい大変さ」であり、だからこそ新しい方法で対処が求められています。
そんなとき、自分にとっての「透き通った本当の食べ物」は何か、何からエネルギーを得ているのか、改めて考えました。そして、それを何人かで話しました。話すことで、自分の輪郭がはっきりしたように感じました。
宮澤賢治はよく「本当の」という表現を使います。目の前に見えているそれではなく、もう一段掘り下げたところにある「本当の」それです。そういうことを、もっと人々と話したいなと思っています。