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自分の苦しさは他人と比べなくていい

苦しくて泣き言を言ったときに、「もっと大変な人もいるんだよ」と言われたことはありますか? それで「そうだよな!」と力が湧いてくる場合はいいのですが、返って打ちのめされることもあります。苦しさって、他人と比べなくていいものだと思うのです。

他の人と比べることで自分を客観視出来る

某国民的アイドルグループの女の子が、「小さい頃からずっとかわいいかわいいって言われて育てられて、正直自分も『わたしってかわいい!』と思ってきたのに、このグループに入ったら全然かわいくなんかないんだと思い知りました」と言っていました。

もちろん、アイドルグループにオーディションで選ばれるくらいだから、かわいい子であることに違いはないのですが、それでもそこで「飛び抜けてかわいい」ということでない以上、そのグループにおいて彼女のかわいさは、個性ではなくなってしまいました。

これは、「かわいさ」を別の集団内で比較したことで、客観視出来た例です。進学した際に、「学力」についてのこうした認識の変化を体験したというのは、よく聞く話ですよね。いずれも、他人と比較することで、自分を知ることが出来た例です。

「苦しさ」を他人と比べることに意味はあるのか

それでは、「苦しさ」を他人と比べることには、どんな意味があるのでしょうか。

「もっと大変な人だっているんだよ!」

そう言われて、その人がどう感じるのか、それは分かりません。その言葉に相応の納得感があれば、それはその人の勇気になるかもしれません。「他の人だって不安だと思うよ」みたいな言葉かけは、不安な自分を肯定することにつながります。

でも、「苦しさ」って、そう単純じゃありません。

まったく同じ状況にいても、それをとてつもなく苦しく感じる人と、それが気にならない人がいます。そして、それは強さの違いでもないし、人としての成熟度の違いでもありません。ただの違いです。
同じ親に育てられても、親に対する思いが異なるように、環境は同じでも感じ方は様々。「もっと大変な人」を持ち出すことが、とても大雑把に相手を否定することにつながる場合がある、ということです。

自分の苦しさは自分だけのもの

トラウマ体験みたいなものでも同じです。ある人にとってはトラウマになる出来事も、他の人はさほど影響を受けない場合があります。それを、例えば「受けた暴力の程度」という指標で判断することには、何の意味もありません。

自分が苦しいと感じるなら、苦しいのです。

苦しさを他人に証明することは難しいかもしれませんが、自分だけはそれを認めてあげる必要がある──僕はそう思います。

ただ、気をつけるべき点もあります。「苦しさ」にフォーカスすることで、鮮烈な感情が呼び起こされ、その状態に酔ってしまったり中毒してしまうことがあります。まだ苦しさの中に留まりたいのか、そこを抜け出して先へ進みたいのか、それを感じ分けて決めるのは、自分の責任です。

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