子どもから高齢者まで? 「地域の居場所づくり」の盲点
最近は「子ども食堂」の取り組みなども注目され、「地域の居場所づくり」が大変さかんです。
社会福祉協議会などは、ずっと前から「地域サロン」などの居場所づくりを推進していますし、市民活動団体の歴史の中でも、そうした「居場所づくり」のはずっと行われてきました。
僕自身も、子どもたちの「居場所づくり」に20代を捧げました。
「子どもから高齢者まで、地域のみんなが来られるような場にしたい」というような考え方に、よく直面するようになりました。
すばらしいことのようですが、その考え方で、本当に誰かにとっての「居場所」がつくれるのでしょうか?
すばらしいことのようですが、それで本当に「居場所」になるのでしょうか?
居場所に持ち込まれる「外部の人間関係」
例えば、子どもの居場所について考えてみましょう。
小学校のすぐ横に児童館とか、子どもの居場所スペースみたいなのができたとします。その学校の子どもたちは、みんなそこに行くわけです。
学校でうまくいっていて、学校に居場所がある子は、そこにも居場所があります。でも、学校でうまくいっていない子は、そこにも居場所はみつけにくいでしょう。
なぜなら、「学校での人間関係」がそのまま持ち込まれてしまうからです。
この例は、「居場所 」とはどのようなものかを考えるために、非常に示唆的です。
みんなが来られる場所では安心できない
どんなに配慮しても場は人を選ぶし、人も場を選ぶ。
万能は場は存在しないし、万能な人もいない。
居場所づくりについて考えるとき、これが大前提です。
場が人を選び人が場を選ぶ関係性のなかで、だれかの「居場所」ができます。逆説的なようですが、「その場に来られない人」がいるから、そこがだれかの居場所になり得るという側面があるのです。
間口や対象者が比較的広い居場所があり、狭く限定的な居場所がある。
それらが各々存在して、そのときの自分にとって必要な居場所を選べるなら、そこにはまったく別の可能性が広がります。
かけこみ寺のようにして飛び込む居場所もあれば、自分が創造のプロセスに参加して初めて得られる居場所もあるでしょう。
10年間を捧げた「子どもの居場所」から学んだこと
子どもたちの居場所に捧げた10年間。いろいろなことを経験しました。
小さな子どもたちは居場所に「通って来ている」感じの子が多いのに対して、中高生たちは、「居場所を作るプロセスに参加する」ことで、そこを「居場所」と感じる子が多かったです。
子どもたちは、通い始めるとやがて「眠い」と言い出して、
「来る→昼寝する→帰る」
というのを一定期間繰り返しました。そのなかで、だんだんそこを「居場所」にしていきました。
このパターンがけっこうあったので、通い初めてからしばらくの眠い時期を、子どもたちは「眠い眠い病」と呼んでいました。
通い初めの子が眠そうな顔であくびしていると、前から来ていた子がこんな風に声をかけていましたた。
「あ、もしかして眠い? ちょっと寝れば?」
「眠れば、眠くなくなるよ」
「単一の場」でなにもかもを解決しようとしない
「地域の居場所」の問題について考えるとき、大切なのは、ひとつの場や組織でなにもかもを解決しようとしないことです。
「子どもから高齢者まで、困っている人みんなが集まれる居場所を作ろう!」
こんな考え方では、すぐに限界が来てしまいます。
そういう志を否定するわけではありませんが、それを「単一の場」で実現しようとするのは、難易度が高過ぎます。
来たい人だけ来ればいいんだ、とざっくりと思い切れればいいのですが、「居場所づくり」は「どんな人でも…」と丁寧にやればやるほど、大変になります。利用人数、つまり規模的な限界だってあります。
だから、場をつくる人には、万能な場を目指して燃え尽きないでほしい。
場は、開く力と閉じる力が働いて成立しています。
そのせめぎ合いが起こっていると、健全性が担保されやすいのです。
人は、状況に応じたそのときどきで、異なる場を求めます。(馴染みの喫茶店があっても、たまには違う店に行きたくなりますよね?)
「ひとつの万能な場をつくって、そこでみんなでつながろう!」という考え方は、かえって人を不自由にするのではないでしょうか?
あるときは居場所だった場が、別のときには居場所だと感じられない。また、その逆もある。人は気持ちや置かれた状況によって、求める場が変わるからです。
そういう「うつろい」がどれだけ許されるかが、その地域の豊かさにつながっていくのではないでしょうか。
万能な場など存在しない。