合わせる価値のない空気もある
空気を読んでそれに合わせる──日本社会では、多くの人がそうしています。でもその空気って、本当に合わせる価値のあるものでしょうか? 合わせる価値のない空気だってあります。
場の空気には「合わせる」がデフォルト?
場の空気に合わせようとする人と、しない人だと、日本社会って合わせようとする人が圧倒的に多いと思うんです。ただ、空気に合わせるというのはひとつの技術なので、
合わせようと思って、合わせられる
合わせようと思って、合わせられない
合わせようと思わない
という感じで、分かれてくると思います。
空気の読めない人を「KY」なんて言って揶揄するくらい、空気が読める人の方が優れた人であるかのように扱われています。
場の空気には2種類ある
場の空気には2種類あります。
人々が居心地よく過ごせるように整えられた空気と、流れと惰性で出来上がってしまった空気です。前者には人の意志が働いていますが、後者は放置された結果ですから、誰の意志も働いていません。
前者のような場であれば、その空気に合わせることには、一定の価値があると言えますよね。でも、後者の場合、空気を読んだり合わせたりしても意味がありません。
そればかりか、惰性の産物である空気に合わせる人たちが続くことで、その空気が維持されることになってしまいます。
丁寧に美しく一石を投じる
場の空気が重苦しい…よくあることです。そこで押し黙っていては、その重苦しさをつくる側に自分がまわってしまいます。何の意味もありません。そんなときは、正直な気持ちを述べるのが一番です。
例えば、冷房が効き過ぎのカフェにいたとします。みんな腕や脚をさすったり、寒そうにカーディガンを羽織ったりしていますが、寒さに耐えています。店員たちは、ただ淡々と動き回っています。よくありますよね。そんな時は通りかかりの店員を呼び止めて、
「ちょっと冷房が寒く感じるので、温度を上げてもらえませんか?」
と優雅に伝えましょう。僕もたまにこれをやりますが、隣のテーブルの人が明らかにほっとしたり、小声で「ほんと寒いよね」みたいなことを言う人がいたりして、我慢している人が多いことがうかがえます。
エアコンはただの例ですが、それこそ寒すぎる空気が耐え難ければ、正直に伝えるのが一番です。今度は「冷房が弱い」という人も出てくるかもしれませんが、それはまた別の話です。
大事なのは、自分のなかにため込みまくったエネルギーを爆発させないこと。優雅に美しく、一石を投じること。努力目標みたいなものですが、よかったらトライしてみてください。