感謝ばかりしていて、本当に大丈夫?
ノブ:一日働いてどれくらいもらえるんですか?
大悟:2,000|権蔵院《ごんぞういん》円です
ノブ:独自の通貨!? ちょっと価値が分からない…
大悟:アサヒの缶ビールが10,000権蔵院円です
ノブ:ええ〜っ! アサヒのちっちゃい缶ビールが10,000!?
大悟:(誇らしそうに)月に一度飲んでます!僕、月に一度飲んでます!
これは、千鳥の漫才(サファリパーク/|権蔵院園《ごんぞういんえん》)の一節です。不思議なサファリパークに家族と出かけていったノブは、案内役の運転手である大悟と出会います。権蔵院園でずっと暮らしている大悟は、外の世界に出たことがありません。
5日間働いてやっと缶ビール1本分が稼げるという気の毒な奴隷労働者なのに、大悟は「権蔵院様」にとても感謝していて、笑顔でこう言い切ります。
「こうして働けるのも、|権蔵院様《ごんぞういんさま》のおかげです!」
この漫才、すごく笑えるのですが、同時にとってもブラックです。感謝しまくっていて幸せそうな大悟に、どこか狂気が宿っており、「権蔵院様のおかげ」と言いながら、心の底では権蔵院様を恐れていることがうかがえます。
「感謝ばかりしてて、本当に大丈夫?」という今回のテーマは、もうこの漫才に集約されています。
感謝がブームの世の中だけど
なんでもかんでも後ろ向きにとらえて、文句や泣き言ばかり言っている人がいたら、僕は離れます。少なくとも、そんな人と仕事や生活を一緒にしていたら、楽しいこともつまらなくなったり、うまくいくことでも失敗したりしそうだからです。
そういう人ってさ、感謝の心が足りないんだよ!
いま目の前にある幸せを認めて、感謝しないと!
まぁ、わかりますよ。理屈では合っています。文句や泣き言を聞いてくれる人がいること、そんなことばかり言っているのに、実際には毎日食事をして、あたたかい布団で眠っていること。そういうひとつひとつに対する感謝を忘れている人間こそ、不幸な人間だ──という話は分かるんです。
だから、感謝しなくちゃね!ということになるわけですが、そうなると、大悟の演じる権蔵院園の従業員とは、どこが違うのでしょうか?
思考停止の感謝はただの逃避
「ありがとう」という言葉を言えば言うほど、感謝したくなるできごとが起こる──スピリチュアルな世界でよく言われることです。また、この手の話が好きな人は、「知足のつくばい」を知っているかもしれません。
京都の龍安寺にある手水鉢で、中央の四角い穴の周りに「五」「隹」「疋」「矢」の4つの文字が刻まれています。
吾唯足知(われ、ただ、足を知る)──現状に感謝し、満足することを知っているという意味で、「感謝の心」とか「足を知る」みたいな話によく出てきます。深いですよね。よい生き方ができそうな気もします。
でも、しつこいようですが、そうして現状に感謝し続ける人と、権蔵院園の従業員には、違いがあるのでしょうか?
自分で感じ考え判断すること
こうした教えの意味するところは、現実を客観的に見つめるということが前提です。人間は完全に客観的になることなどできませんから、自分を律して、真実を見つめようと心がけます。
それに対し、「とにかく感謝する」というフレームを心にインストールして、なんでもかんでも「◯◯だから感謝だね」で片付けてしまう権蔵院園的態度は、考えることを放棄しています。
自分で感じ、自分で考え、判断する──これをやめることは、自分をやめることを意味します。自分を投げ出してしまう。何に?権蔵院様にあたる、奴隷としてのその人を所有するご主人様にです。
人は弱気になると、感謝に逃げることがあります。感謝とは弱さの表れではなく、自分を律し真実に向き合う強さの証であるはず。無批判に感謝ばかりしていて、いいはずがありません。
(補足:「ありがとう」と言い続けることの効用に対する考察)
上の文章のなかで、「ありがとう」と何度も言うことで、感謝したくなるできごとを引き寄せる、という説を紹介しました。引き寄せ、とか好きな人は聞いたことありますよね。
僕は、このエクササイズの効用を「完全に感謝を忘れた人が、感謝する余地を心につくり出すこと」だと考えています。その結果、目の前にある感謝に気づけるようになり、感謝する機会が増えたと感じます。感謝など忘れて、自分のことばかり考えている人に、(ある種の現世利益をエサにして)感謝の心の下地をつくる効果があると思います。
ただ、今回書いたように、感謝の心は、感謝の心だけで成り立つものではありませんから、こうしたエクササイズがやがて毒になるか薬になるかは、その人次第ではないでしょうか。
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