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運命とか立命とか宿命とか②

母が脳腫瘍になって、父は色々な所からよく効くと言われるものを試そうと高価な薬やら水やら買っていました。父なりに必死に母の脳内で侵攻している病を食い止めようとしていたのかもしれません。ある日父から大学を中退して家に戻ってきてくれと電話がありました。私は何のために美大受験して、ここまで頑張ってきたのだろうと考える日々が続きました。
そんな中、親友が「卒業はした方が良いと思うよ」と声をかけてくれました。休みの日は実家とアパートを往復するようになりましたが、それでも何とか単位をとって卒業することができました。

卒業後、母の病はますます侵攻し、まるで子供のような素振りを見せるようになりました。水仙を見つけては「この花はなんていう花?」と聞いてきたり、お風呂に入りたくないと駄々をこねたり、、、その頃はイライラしてしまったり、毅然として聡明な母親のそんな姿にショックで、私の中では現実を受け入れられる器がありませんでした。今となっては、もっとしっかり目に焼き付けておけば良かったなと思います。

やがて、病院のベッドに寝たきりになり、大部分の脳が病に侵され、呼吸はしているが意識が無いという状態になっていきました。毎日病院に通っていたある日、余命宣告を受けました。あと4か月・・・。
でも結局2か月ほどで息を引き取りました。
看取りという期間、これは残される者にとって、とても大切な時間であると感じます。近年コロナで病室に入れず最期のお別れができなかったりするなど、この「看取り」という大事な時間が持てないことで、亡くなった後、遺族は心の整理がうまくできなかったり、心に生前の思い出を強く残すことができない状態になります。
実は昨年父が他界し、コロナ禍のため、病室に入れたのは息を引き取る数時間前でした。家族しか会えず、それは悲しい最期だと感じました。

母が亡くなって、次に祖母の介護が始まりました。祖母は仕事人。家事があまり好きではない人で、尚且つプライドの高い人。私が食事の支度をするまで、こたつでじっと待っている人でした。
会社(父が経営する印刷会社)に入社して、仕事と家のことを両立する生活が始まり、9時~5時半まで仕事をしてから一旦家に戻り、夕飯をつくり、家事をして、また夜9時位から夜中3時頃まで仕事して、帰って寝て・・・という生活が続きました。会社の中では一番若かったので、私が生まれた頃から会社で働いてくれている社員さんたちに比べて、仕事量は多く、それに加えて、まだ技術も経験もないため、時間がかかります。必死に毎日頑張っていました。

当時、祖母は日中ケアホームに行っていました。楽しんで行ってくれていたら私はまだ救われていたのかもしれませんが、なにせキャリアウーマンで祖父の作った借金を返し、一人で息子3人を育ててきたという自負があります。なかなかケアホームで心を開くことができなかったようです。私は体も心も疲れすぎていて、ケアホームのお迎えの車が来ると分かっていて、部屋から出ずに祖母の見送りをしなかったり(つまり祖母が出かける準備ができずにいるのを無視していたのです)、夕飯の支度をする気力がなくなって、パンを置いておいたりするようになってしまいました。この頃のことを思い返すと胸が苦しくなります。世話すべきことをほとんど放棄していたのです。

私の様子を気にしてか、叔母がお手伝いさんを手配してくれました。家事一切をやってくれることはとてもありがたかったのですが、家の中に他人が入るということへの抵抗感はありました。それでも、食事の支度や掃除などをしてくれることに安堵感を覚えました。

会社には、もともとデザイン制作担当として入社しましたが、社長である父が私に営業も覚えさせようと、数年経つと、外回りをするように指示がありました。社長の顧客に直接打ち合わせさせて頂けるよう、一人で行かせてもらえるようになり、益々、仕事量は増えていきました。日中お客様との打ち合わせや、撮影、仕入れの手配などをして、夜間、制作業務をするようになりました。結局、寝れない日々は続いてました。

ある日、祖母は足を踏み外し骨折をしました。もともと大腿骨にボルトが入っていたため、杖か車椅子での移動だったのですが、もう歩くことができなくなり、病院に入院。そこから食事量が減り、やがて眠るように息を引き取っていきました。
祖母に限っては、とにかく今でも後悔ばかり募っています。もっとこうしてあげれば良かったと思うことがたくさんあります。丁寧に一緒に歩んであげることができず、私は自分ばかりなぜこんなに苦労しているのかという自虐的な思いに苛まれ、祖母への優しさがなかったことに後悔しかないのです。

その後、仕事に追われ、さらに自分らしさを失っていきました。

「運命とか立命とか宿命とか③」に続きます。


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