小学生の頃モテモテだったAくんへ
Aくんは足が速い。小学校の同級生だったAくんは、とにかくモテていた。小学生の頃、足の速い子がとにかくモテるのは雄としての魅力が顕著に視覚化されるからだと私は睨んでいる。
Aくんがモテる理由は、足の速さだけではなかった。サッカーが上手だった。顔もかっこいい。背が高い。勉強もできる。そして、みんなに優しい。イジワルをしない。
学校中の女子がみんなAくんのことを好きなのは、みんなが分かっていた。彼自身も、自分では言わないけど流石に気づいていたはずだ。でないと不自然なモテ方だった。
Aくんとは中学校までの9年間、同級生だった。それなりに仲も良かったように思う。Aくんは嫉妬する気も起きないくらいの天上人だったが、性別にもスクールカーストにも関わらず誰にでも優しかった。
Aくんはとにかく余裕のある人だった。彼の余裕は、おそらく多数の人々の愛情を一身に受けていたからだと思う。
今は彼がどんな人生を歩んでいるか知らない。どんな仕事をしていて、どんな交友関係を持っていて、どんな恋愛をしているか知らない。
でもきっと、Aくんは相変わらず余裕のある、そして誰にでも優しい大人に成っていると思う。
挫折も少なからずあったかもしれないが、きっと屈折した人間には成っていないはずだ。
私は足が遅かった。逆上がりができなかった。逆上がりができなくてモテる小学生などこの世に存在しない。
運動会のリレーではバトンを受け取ってすぐに抜かれた。
足の速さがスクールカーストに直結する小学校で、リレーで抜かれることは耐え難い屈辱であった。
生きるコミュニティが学校しかない小学生にとって、リレーで抜かれることは打首を喰らうこととほぼ同義である。
小学生時代のスクールカーストは、人格形成に大きく起因する。幼少期に愛を注がれた人は、愛される幸せを知っている。愛される幸せを知っているから、人を愛せる。
おそらく私は、これからどれだけお洒落な服を纏っても、どれだけ美容に力を入れても、どれだけ巨額の富を手に入れても、どれだけの美女と関係を持っても、Aくんより余裕のない、屈折した人間で在り続ける。
幸せになれないわけではない。Aくんとは得られる幸せのカタチが異なるのだ。
Aくん、小学生のあなたにはどんな景色が見えていたのでしょう。そして今、どんな景色を見ているのでしょう。
どうか、幸せでいてほしい。もしあなたが幸せじゃないなら、この世は残酷過ぎる。屈折した私のような人間になど目もくれず、幸せであってほしい。
私は、もう10年以上も会っていないAくんをエッセイの題材にする。醜いコンプレックスの塊である。
でも今はもう私も大人になった。大人は良い。逆上がりができなくても白い目で見られることがない。リレーで抜かれることがない。
コンプレックスを抱えながら、屈折しながら、自分なりの幸せを手に入れるために、自分を愛していたい。
Aくんとは異なるカタチの幸せを手に入れるために。