お産から得たこと#19「放置・孤独、得たことはない、二度とここで産まない」
≪業務が多く、人手も足りない。他科と混合病棟で看護の仕事もあり、なかなか助産師に戻れない。いろいろ現場のご事情があると思いますが、このままでいいはずもなく、さて、話し合いが必要です。≫
■ ずっとそばにいてほしかった。陣痛こわすぎた。
■ 陣痛中は全然来てくれずそれが当たり前だと思っていた。夜中にお産が重なり、助産師さん一人と知っていたのでなるべく頼らず、全開までほぼ助産師さん無し、呼吸で頑張りました。夫のサポートがなかったら、自分自身が乱れて、泣き叫んでいたのではないかと思います。
■ ケアなくてつらかった。
■ 初めての妊娠は分からないことが多く特に10代だと友人にも相談できず孤独です。私は第1子は心温まる経験はできませんでした。唯一カンガルーケアは愛おしさがたまらない瞬間です。その後4人目は助産院だったのでとても素敵な体験をさせていただき母と子、妊娠出産の素晴らしさを再確認できました。
■ 早朝だったので、スタッフがおらず、孤独だった。
■ 3人目だからって放置はしないでほしかった。血圧しか測りに来なくて何のために入院してるかわからないし、傷痛いし毎日泣いてました。
■ 何もなく、子どもの生命がただただ心配だった。アラームを無視されてSPO2が一気に下がっていくのも放置されていて、恐怖で叫んだ。
■ 今思うと、ほぼケアはなかった。看護師さん達が普通に見回っていたという感じ。個室だったのもあって、一人で放っておかれていたような気がします。
■ 産後もずっと母子同室が希望でそうしてくれました。ただ体が辛くておむつを帰るのも大変で。2人目というのもあり完全放置だったのでもうちょっと気にかけて欲しかったかも。
■ 出産時、第1子の時は丁寧にみてくれてた感じがしたのに、今回は経験者だからかほっとかれる感じがした。もう病院は嫌だなと思った。
■ 夜中の出産が続いていたので、手当ては希薄だったのかんじています。
■おっぱいが良く出てるねと言ってもらったのは覚えているけど、他は余り記憶がない。入院中、家族は良く来てくれたけど、スタッフと話した記憶はない。今思うと、ゆっくりさせてもらえて、ご飯をたくさん出してもらって、おいしかったので、ありがたかったなと思う。でもスタッフに一緒にお産を振り返ってもらったり、何かお話した記憶が余りない。産後もおっぱいが良く出て順調だったので、何かケアが必要だった訳ではなかったんだろうなと、自分に言い聞かせている。
■ ポジティブな思い出がなく、とにかく疲れていた。赤ちゃんを預けたいのにあずけている人がいなく無理してお世話していて辛かった。ご飯もまともに食べられなかった。それを気づいてくれる方もいなかったし、助産師さんが忙しそうで声をかけるのも気をつかった。赤ちゃんを産んだら1人で戦わなきゃいけないと学んだ。
■ 出産後の入院は母子同室で全部自分でやろうとしたがもっと助産師さんを頼ってもよかったな、と後から思った。
■ ひとり目で嫌な思いをしたので、別の病院を選びました。知識がなく、総合病院しか思いあたりませんでした。
■ 陣痛中の放置、産後の母乳の助けもなかったので、もう二度とクリニックで産まないと決めました。
■ 次はここで産みたくない。助産師を変えてほしかった。
■ もし次に妊娠したときは病院で産むのはやめようと思った。
分娩中の助産師は、陣痛室で初めて会った方だった。私にも他の助産師に対しても横柄な態度で平気で産婦が傷つくことを言っていたにも関わらず、医師が到着した瞬間に態度が豹変。「もう少しですから頑張りましょう! 」と言われた。分娩で痛みと不安に耐える中、非常に不愉快な気持ちになった。特に大きな病院は組織的背景が強いことを理解しているが、自身の進退に影響する医師の前で演じるとは、一体どこを見て仕事をしているのかと違う意味で忘れられない。母子手帳の「分娩取扱者」欄にこの人の名前が書いてあるが都度思い出し嫌悪感を抱く。出産前から知っていれば確実にこの助産師は選ばない。
■ 良いイメージが何ひとつ思い出せない
■ よかった、うれしかったということは特にない。
■ 得たものはあまりなかった印象
■ カンガルーケアもなく、授乳指導も別室の集団でうまくいかずとてもつらかっただけでなく、ひどい乳腺炎になった。やさしくしてくれる助産師もいなかった。エステや豪華な食事にだけお金を払ったが、母子へのサポートはなかったように思う。
■ このアンケートで振り返ってみると助産師さんとの関わりがほとんどなかったことに気づきました。本当に毎回違う助産師が来て医療的ケアだけして、時間が変わればまた違う人が来てという状況でした。
■ これといって覚えてるようなことは何もない。
■ すごくなにかしてもらったなぁという記憶がない。
■ とにかく流れ作業で、これといって受けて良かったなと思えるケアがあったかどうか覚えていない。
■ 得たものは何ひとつ、なかった。
■ 個人的には出産にかかわる一連のことが何もかもストレスで出産後も赤ちゃんが負担にしか感じられなかった。出産直後の病院での授乳指導も繰り返し&長時間でストレスから発熱した。他の親御さんとの交流が唯一の救いだった。
■ 今思えばあまりケアを受けた記憶が無い
■ 大学病院だったので、日々人が変わり、担当してもらった感はあまり無かった。
■ 誰か特定の助産師さんではなく、特に親近感が湧いたりはしなかった。
■ 特になし、あまりケアしてもらえなかった
■ 特になし、あまりケアしてもらえなかった
■ 特に記憶にないのです。あまりいい記憶がない。
■正直、家族以外で支えられたと感じていない。助産師という存在を知らなかったので、看護師だと思っていた。先生の補助としてしか見ていなかった。
■ あまり印象に残っていない。出産後、取り上げてくれた助産師さんと何回かすれ違ったが、お話は出来ず、あまりお産の振り返りができなかった。
■ 助産師の方に出産の怖さを伝え励ましてもらい出産をしたが、その助産師さんのスタッフルームでの様子を見て好感を持つことができなかった。コロナの影響で個室を割り当てられたが、家族も来られないし、他の入院者と話す機会も少なく非常に孤独だった。担当の助産師さんも毎回変わった。清掃スタッフの方が掃除のたびに寄り添ってくれた。
■ もう絶対に病院で産みたくないと思った。入院も長く早く退院したかった。旦那の立ち会いを希望していたのに、最初から病院で出産予定の人じゃないと立ち会いできなかったようで、その説明もないまま分娩室に連れていかれ、旦那は廊下に出され不安だった。赤ちゃんは出産時に羊水を飲んでしまったようで上手く呼吸ができずすぐにNICUに運ばれた。私は出産後で状況が良く分からず赤ちゃんが心配でたまらなかった。旦那は廊下で出産した様な声は聞こえるのに、赤ちゃんの泣き声が聞こえなかったのでとても怖かったらしい。それがトラウマでもう赤ちゃんはいらないと思うようになった。出産が終わってクタクタな状態でやっと病室に戻れたのは5時頃で、眠かったのに病院のルールで6時頃に看護師さんが体調の確認をしに来て、さっき寝たばかりなのに起こされて不快だった。インフルエンザが流行している時期であることとNICUに入院していたので、旦那がすぐ子どもを抱っこできず残念だった。
■ 全部自分でしなくて良いし、しんどくて当然だし、ということを教えて欲しかった。もっと助けてもらいたかった。出産翌日から母子同室で、いきなり訳も分からぬまま泣き続ける娘、決まった授乳時間、しんどい体、辛い思い出しかない。1回、「しんどそうだから預かるから寝てね」と看護師だか助産師だか分からないが、回ってきた方に言われた時は母親失格のように感じて自分を責めてしまった。入院中はどんどん人任せにして休めば良かった。誰にも気持ちを話せず、聞いてももらえず、辛かった。聞かれてももしかしたら、大丈夫ですと、言っていたかもしれない。でも、誰も辛かった話をしてくれなかったから、辛いと思う自分がおかしいと思い続けてしまった。妊娠や出産について、もっと教科書どおりでないお話を聞く機会があったら良かった。出産する月まで仕事をしていて、余裕もなかった。