私はミニマリストと言えるのだろうか?|エッセイ
よく記事を読んでくれている方は、私はミニマリストになりたいと度々口にしていることをご存知だと思うが、ご存知でない方のために言う。
ミニマリストになりたい!!
この気持ちは本物だ。
ミニマリスト本を見つける度に何冊も読んでいる。
すっきりと洗練された生活に憧れる。
ささやかながら自分にできることとして、ものの数を数えて、不要なものは新たにモノを買わないように自制する日々だ。
だから、自分では自分をミニマリスト(の魂はある)と思っている。
でも、物を捨てたくない!!
厳格なミニマリストの方からしたら、こんな考えでは全然あなたはミニマリストじゃなくない?!と思われるだろう。
なんで今使わないものを捨てないのだろう?と自分に問いかけてみる。
それは単純に「まだ生きてるから」「今後使う予定だから」なんだと思う。
必要になった時に買えばいいという理論も合理的で、理屈としては分かる。
それでも、私は今持っているモノに対しては、「思い出がある君じゃなきゃだめなんだ!」と未練がましく思ってしまう。
買った時のことを一つ一つ、思い出せる愛着がある。
できることなら死ぬまで使いたいし、あわよくば使えるなら死後も誰かに活用して欲しい。
モノに死後の念とか一切宿さないので、何卒よしなに扱って欲しい。
何なら、100年後くらいに郷土資料館の「令和時代の生活」の展示コーナーに私のモノを飾ってほしい。
ダメかな?
私が生まれたからには生きるように、モノを手に入れたからには死ぬまでには是が非でも使いたいし、大事にしたい。
この時点でもうミニマリスト的に破綻している気がするが、私はモノを捨てまくりたいわけじゃなくって、モノを大事にした結果、ミニマリストのように少ないモノに囲まれて暮らすのが理想なのだ。
…かっこよく言ったけれど、節約したいという邪な感情もちょっとある。
私の文章を読んでくれている人に、ミニマリストになるといいよ!と言いたいわけでも、モノを捨てちゃダメだ!と言いたいわけでもない。
タイトル通り、こんな私でも、ミニマリストと名乗っていいのかな?(否、いいだろう!)とだらだら書いてみたくなっただけだ。
そういうエッセイがあってもいいよね?(否、いいだろう!)
昔、漢文で疑問系で聞いて「〜だろうか?(否〜である。)」と意味をする文法があった気がする。
高校時代、それがクラスで流行ったことがあるのを思い出す。
この文法、いいよね。
好きだからこそ、声を大にして言いたい。
否、言えるのである!
少なくとも私はそうだと思いたい。
おしまい。