ハッピー・ニュー・マネー
目醒めたのは駐車場だった。駐車場に生まれ落ちたといってもよい。なぜなら目醒めたとき、ほとんど何も憶えていなかったからだ。赤ん坊とまではいわない。その場所が駐車場ということは理解できた。車は一台も停まっていなかった。だが遠くの暗闇までアスファルトが広がり、電灯に照らされた白線模様を眺めているうちに理解できた。私が新しく生まれ落ちたのは何もない夜の駐車場だということを。
なぜ生まれたではなく、生まれ落ちた、なのか。それは私が天使で空から落ちてきたという意味ではない。ただ、空から落下してきたかのような傷やあざや痛みが、体のいたるところにあった。唇からは血の味がし、肘は擦りむいていて、十本の手指はしばらくうまく動かすことができなかった。体を少し横に向けると背中に激しい痛みが走り、後頭部には鈍痛が残っていた。それでもなんとか立ち上がろうとすると、脚の骨が古い民家のように軋んだ。私は小さな歩幅でゆっくり歩き始めた。どこかの高い場所から転落したわけではなさそうだ。なにしろここは何もない不毛の駐車場だ。落ちて怪我ができるような高い建物はどこにも見あたらない。ときおり襲ってくる背中の痛みが強制的に私の歩みを止めた。そのたびに目を強く閉じて痛みをやり過ごした。おそらく、と思った。誰かに襲われたのだろう。誰かに攻撃を受け、この駐車場に置き去りにされてしまったに違いない。
赤ん坊も血にまみれて生まれてくる。体に付いた血は母親のものだが、泣きながら生まれ出てくるのは、痛みをともなうからだろうか。痛みを感じ、自分の生命が危機にさらされ、それでも生き抜くために多くの酸素を求めて泣き叫んでいるのだろうか。
いくつもの傷を負いながら、私は夜の駐車場を一歩ずつ進んでいた。夜の闇の向こうにはまだ何も見えてこなかった。無目的でも人はどこかに進んでいく。ズボンのポケットに何かが潜んでいる感覚があった。手を突っこむと、くしゃくしゃの紙切れがそこにある。取り出し広げてみると、それは汚れた一万円札だった。
その日の朝、ホテルの受付の男は困惑した表情を浮かべていた。
「申し訳ございません。何度も試したのですが結果は同じ、すべてエラーでした」
男は二十代の風貌で、ホテルの仕事にまだ慣れていないようだった。
前夜に開かれた接待の支払いでも、そのクレジットカードは正常に機能を果たしていた。領収書も残っているし、カードの限度金額にはまだ達していないはずだ。受付の男の不手際かもしれないし、カードがどこかで強い磁気を帯びて読み取れなくなってしまったのかもしれない。別にどちらでもよかった。私は財布から一万円札を取り出して、カウンターの上に置いた。
「お客様、申し訳ございません」男は再び緊張した様子で頭を下げた。
「現金は使えないんですか?」私は訊ねた。
「いえお客様」と男は言った。「現金はご使用できます。ただし、お客様の現金におかれましてはご使用ができないのです」
その後に自分が男にどうふるまったのかは思い出せなかった。おそらく部屋に忘れ物をしたとか適当なことを言ったのだろう。とにかくもう一度自分の泊まっていた部屋に戻って、自分の置かれた状況を整理し、対処の方法を考えることにした。
部屋に戻ると、小さな窓から朝日が差しこんでいた。とてもまぶしい光で、部屋に舞うちりが微細な反射を繰り返していた。まさに新しく始まった一日を祝福するような輝きだった。その輝きに囲まれながら、私の胸の内には一つの空白が生まれていた。とても小さく不確かな空白だ。その空白を抱えたまま、私はどうにかしてホテルをこっそり抜け出した。そして町を歩き、コンビニやスーパーで自分の現金やクレジットカードの使用を試みた。しかし結果はすべて同じだった。胸の内の空白は確固とした約束事として重みを持ち始める。それは身に憶えのない約束事だった。
どうやら私は私の金を使えなくなっていた。
ようやく駐車場の出入口までたどり着いた。出入口には海水浴場の大きな看板が掲げられている。私が目醒めたのは海水浴客が利用する駐車場で、その広さから人気のある海水浴場らしかった。私は駐車場の敷地から出て、暗闇に伸びる片側一車線の国道沿いに歩を進めていった。海が近くにあるのだ。波の音は聞こえず、潮の香りもしない。ただ状況から海がすぐそばにあることは推察される。世の成り立ちが大きく歪んでしまわない限り、ほどなくして海に辿り着けるはずだ。私は海のそばにいるはずだ。
体の痛みは少しずつおさまってきた。だが大きく足を広げて歩を進めようとすると、やはり背中に鞭を打つような痛みが走った。私がこの世界に馴染むのをまだ許さないような冷ややかな痛みだ。何でもいい、何かを飲みたかった。ポケットの中には丸められた一万円札がある。そして道路の先には見慣れたコンビニの明かりが見えている。あのコンビニでこの一万円札は使うことができるのだろうか。いや「私の所有している一万円札」は使うことができるのだろうか。背中の痛みをやり過ごしながら、私は小さく首を横に振った。おそらくこの一万円札は使えないだろう。体の痛みがそのしるしだ。
コンビニの近くまで行くと、女が一人スマートフォンで話をしているのが目に入った。淡い水色のカーディガンを着て、小型車のドアに寄りかかりながら、丁寧な口調で相手に頼みごとをしているようだった。時刻はわからないが、こんな深い夜に女が一人で頼みごとをしなければならないのか。私は女の視界に入らない場所までゆっくり移動した。たとえば私があの女に一万円札をあげて、飲み物を買ってもらうことはできるかもしれない。私の所有している金を女の所有している金に変更すればうまくいくかもしれない。申し訳なさそうに自分の足元を見つめながら話している女の電話はまだ終わりそうになかった。
朝の駅の待合室には私しかいなかった。市内行きの電車は出発したばかりで、駅員は一人で構内の掃除をしており、ロータリーでは中年のタクシー運転手が眠そうな目で煙草を吸っていた。
私は待合室のベンチに座り、自分のスマートフォンで妻にメッセージを送信した。その朝を境に交わされた約束事をまず妻と共有しようと思った。【自分の金もカードも使えなくなっている】せっかくのさわやかな春の朝に送られてきた夫からの奇妙なメッセージを妻はどう受け取るだろうか。ここ数年で妻との会話は少なくなっていた。私は乳幼児用玩具メーカーの商品企画責任者として、全国の工場や卸業者を訪問する出張が毎日のように続いていた。たまに自宅にいるときは静かに目を閉じ、考えることを避けて疲労をやり過ごすことにしていた。妻もフランス料理の教室に通う回数を多くしたようだった。妻と別々に食事をとることが珍しくなくなり、やりとりもスマートフォンのメッセージで家の用事を連絡するぐらいに減っていた。それが夫婦としての自然な変化だと思っていたし、特に不便さを感じることもなかった。そして安定した収入が私たちのバランスを維持してくれていた。
妻へのメッセージは開封されずにいた。そういえば平日の午前中に妻が何をしているのか、私にはわからなかった。どこかへ車で移動中かもしれない。メッセージを開封してもいたずらだと無視するかもしれない。背中を押されるように私は妻に電話をかけようとした。そのときにやっと異変に気がついた。ディスプレイ上で正常な送受信を示している電波のマークが消滅していたのだ。そのまま妻の電話番号を押してみた。しかしスマートフォンを耳に当てても無音だった。その後、他の相手にもメッセージを送ったり電話をかけたり、インターネットやSNSに接続しようと試みた。やはり結果は同じだった。私の知らないところで交わされた約束事は現実でしっかり機能していた。スマートフォンの利用料金は私のクレジットカードで毎月自動的に引き落とされている。たぶん契約はすでに破棄されてしまったのだ。そしてその朝に新たな契約に書き換えられたのだろう。
私は掃除中の駅員に声をかけ、駅務室の電話機を使わせてもらえないかと頼んだ。若い駅員は返事に臆したが、急かすような言い方で私は強引に駅員と一緒に駅務室に入ることができた。私が電話をかけた先は会社だった。
「お疲れさまです。今から戻りですか?」電話に出た相手は入社三年目の部下の男だった。
「特に変わったことは起こってない?」私はできるだけ冷静な声を出すように努めた。
「えっと……」部下はしばらく沈黙した。「さっきそちらのホテルから総務に電話があったようで、宿泊の方が料金未払いのまま行方不明になった、という話のようです」
「それについての電話なんだ」私はゆっくりと説明した。「どこかで財布をまるごと失くしてしまったことに今朝気づいたんだ。それからずっと探していたんだがどこにも見つからない。だから会社から直接支払いをしてほしい、その手続きをホテルとやりとりしてほしいという電話なんだ」
「わかりました。総務に伝えておきます。あと」部下は私の説明を遮るように言った。「今朝、人事異動が発表されました。発表によれば僕はもう部下ではなくなったようです」
カーディガンの女が電話で話しているあいだ、私はできるだけ身を整えた。唇の血を拭い、服の汚れを手で払い、背筋をまっすぐ伸ばした。そして一万円札のしわを膝の上で丁寧に伸ばした。丁寧に伸ばしながら、部下の言葉を思い出そうとした。彼はすでに私の部下という立場にはなく、管理職に抜擢されたと言っていた。私は商品企画部から外され、新しくできる小さな部署に配属されるようだった。私の仕事内容について彼が電話で説明してくれたが、まるで憶えていなかった。それに配属先がどこであろうと今の私にはどうでもよかった。どこの部署でどんな仕事をしても、会社から受け取る報酬で私は暮らしていくことができないようになったのだ。
そのとき私は、受け入れている私に気がついた。そうなったことが当然であるかのように私は受け入れていた。私が受け入れていることを、カーディガンの女は理解してくれるだろうか。ただ、自分が一つ一つをどのように解釈して受け入れているのかを詳しく説明することができない。そんな話を誰が理解できるだろうか。カーディガンの女はすでに電話を切っていた。そして私の存在に気づき、夜の国道を見渡すような目で私を観察していた。
「驚かせるつもりはないんですが」私は女に近づき、枯れた声で言葉をかけた。「ひどく喉が渇いていて、うまく声を出せないんです」
「どうか……されたんですか」女は私の姿に異変を感じたのか、少し後ずさり心配そうに言った。
「会社の出張でこのあたりまで来ました」そう言ったところで突然背中に痛みが走り、しばらく言葉に窮した。「……出張と言いましたが、今の私は何も持っていない。鞄も持っていないし、会社の名刺も持っていない。携帯電話もどこかでなくしたみたいです。ただ怪我をしていて、喉が渇いている。なにか飲みものがほしくて声をかけました」
女は私の顔を見つめた後、振り返ってコンビニを指さし、再び私の顔を見た。そして「なんでも揃っていますよ」と言い、車の運転席のドアを開けようとした。
「私に今あるのはこの一万円札だけです」と私は手にしていた一万円札を女に見せた。「でも私にお金があっても何の意味もないんです。だからこの一万円札を私のものではなく、あなたのものにしてもらいたい。そしてそこのコンビニで好きなものを買ってきてほしいんです。その中に飲みものがあれば、それを私にわけてもらいたいと思っています」
女の目は平板だった。夜の国道にはときおり不可思議な生き物が横切るものだ。スマートフォンをららりと確認した後、女は小さな声で「すみません」と囁いた。
「失礼ですけれど……その一万円札があなたのものだというのは確かなことなのでしょうか」
女はそう言うと逃げるように運転席に乗りこみ、あっという間にエンジンをかけてコンビニの駐車場から走り去っていった。
駅員に礼を言って駅務室から出た後のことはうまく思い出せなかった。いくつもの瞬間的な記憶が花火のように浮かんでは消えるだけで、それぞれのつながりが判別できない。それぞれの記憶も正しいものかどうかわからないし、時間や場所が入れ替わっている可能性もある。駅務室を出てから海水浴場の駐車場で目醒めるまで、どれだけの時間が流れたのかもわからない。
「ツケが回ってきたのかもしれねえな」
ハンチング帽の男は私に向かってそう言い、煙草に火をつけた。男の背後は公衆トイレの壁だった。解読不能の落書きで壁は埋め尽くされている。
「ツケって、何のことですか」私は少々腹を立てていた。
「ツケはツケだろうよ」男は小さく笑った。「おまえさんは支払うべきときに支払ってこなかったってことだ」
「支払いが遅れたことは一度もない」と私は言い返した。「預金残高が足りなくなったこともないし、借金だってしたことはない。学生のときに友だちから借りたことはあるけど、それでだって約束の日までにきちんと返した」
「まあいいじゃないのよ、そんなことは」
男と公衆トイレの壁のあいだから女がゆっくりと姿をあらわした。「こんなところで喧嘩なんかしたってしょうがないでしょう」女は肩があらわになったワンピースを着ていた。「ねえ、早くお店に行きましょうよ。もうすぐそこなんだから」
「そんなこと言ったって、支払えるものが何もない」私はズボンのポケットに手をつっこんだ。
「どうやって支払うのかは、あなた自身が考えないといけないことじゃないかしら」
自宅の台所で、妻が包丁を手にしながら呟いた。しかし実際は妻が口に出した言葉ではなく、私のスマートフォンに届いた妻からのメッセージだった。
「もう何かのふりはしないでほしいの」とメッセージが表示される。
「ふり?」
そう聞き返すと、妻は微笑んでいた。台所の窓からは光が差しこんでいる。あの朝のホテルの部屋と同じ光だ。しかしよく見ると、空気中に漂っているのはちりではなかった。それはとても微細な数字だった。5……2……4……9……7……ちりのような数字がいくつも空中でゆらゆらと反射を繰り返していた。再び妻のメッセージが表示される。
「あなたはいつも何かのふりをしてきたのよ。大人のふり、夫のふり、隣人のふり、会社員のふり、働くふり、そして自分のふりをして代償を払っているふり」
「こりゃあ、きついのが出たな」
煙草を吸っていたハンチング帽の男が妻の背後に立っていた。「あんたの奥さんの言うとおりだよ」男はそう言って、後ろから妻の体を抱きしめた。そして妻のあごを強く引き寄せて唇を重ねた。妻が抵抗している様子はない。むしろ男の力に身を任せているように見えた。
「たとえばこういうことだよ、ご主人」男の目は鋭く私を睨んでいた。「奪い取られるというのはこういうことだ。奪い取られることが可能なものはいずれ必ず奪い取られる。繰り言だがな、それは支払うべきときに支払ってこなかったってことの証拠なんだよ」
いつのまにか私は男の顔面を殴っていた。そして男から妻を引き離した。しかし私の腕の中にある妻の顔は妻ではなかった。ワンピースを着ている女だった。
「ややこしい用事は終わったみたいね。さあ、行きましょうよ」
それから女は私の手を引いて、どんどん道を進んでいった。暗闇の奥へと女は進んでいく。無目的でも人はどこかに進んでいくものだ。私はどこかに進んでいるふりをしているだけなのだろうか。たぶんそうだ。だからそのうち黒いスーツを着た屈強な男たちがあらわれて、私から奪って取っていったのだ。鞄を奪い取り、財布を奪い取り、スマートフォンを奪い取る。それでも足りずに暴力を加えてくる。何もなくなった私を男たちは車に乗せ、何もない夜の駐車場に放り捨てた。そしてそこが私の新しく目醒めた場所だった。
コンビニの中には誰の姿も見当たらなかった。店員は控え室で休んでいるのかもしれない。それでも私は念のため店内から目の届かない陰に移動し、地面に座りこんだ。私がそこにいることを知っているのは夜空の月だけだった。月だけが私を見ている。月光に照らされた空気は世界中の眠りを守るように澄んでいた。数字のちりも漂っていない。私は目を閉じ、鼻からゆっくり空気を吸いこんで口からゆっくり吐き出すことを何度か繰り返した。
誰かが私から奪い取ったのであれば、今度は私が誰かから奪い取る必要があった。たとえ自分の金が使えなくなり、仕事がなくなり、何かのふりをし続けているのだとしても、私は私で自分の生存方法を見つけ出す必要があった。ちらりと見えたコンビニの時計から予想すると、夜が明けるまでにそれほど時間は残されてなさそうだった。
私は立ち上がって、コンビニの入り口にゆっくり近づいた。店内を注意深く覗きこんだが、やはり人の気配は感じられない。入り口は自動ドアだった。開くと音が鳴り、店員はレジに戻ってくるだろう。条件は良くないが、この機会を逃すわけにはいかなかった。新しく生まれ落ちたといっても、赤ん坊のように母親から与えられるわけではなく、自分で手に入れなければならない。私は店内の棚をそれぞれ確認し、自分に必要なものをリストアップし、それらを効率的に手に取っていくルートを頭に入れた。気づくといつのまにか背中の痛みはおさまっていた。
私は私のふりをしているだけ。
そんな言葉を告げられたのは初めてだった。記憶が混濁していて、実際にそれが誰の言葉なのかはわからない。たぶん妻に言われたことはこれまでないし、他の誰かから言われたとも思えない。もしかしたら「私のふり」に言われたかもしれない。そして「私のふり」は愛想を尽かして私のもとを去っていったのかもしれない。私の所有していたすべてをバッグに詰めこんで。残された私はただ喉を渇かせ、腹を空かせているだけだった。
大きな深呼吸を一つしてから、私はコンビニの入り口の前に立った。自動ドアが開くと同時に音が鳴る。最初の目標はまずドリンクの陳列場所に決めていた。素早くそこへ辿り着こうと大きな歩幅で店内に足を踏み入れた瞬間、レジの奥から店員が姿をあらわした。五十代ぐらいの風貌で、コンビニの制服を着ていた。そしてハンチング帽を被っていた。男は「いらっしゃいませ」と小さく低い声で言い、私の姿にちらりと目をやっただけで、すぐに何かレジの作業を始めた。間違いなく記憶の中の男だった。私の妻を奪い取ろうとした男だった。そのことに気づいて店内を移動するスピードが少し遅くなってしまった。しかしためらっている余裕はなかった。私はペットボトル入りの水を一本手に取り、いくつかの栄養補助食品を手に取り、予定になかったチョコレートを一つ手に取った。そしてそれらを店のプラスチックカゴに入れて、レジに向かった。ハンチング帽の男は私のことをじっと見ていた。おそらく私が商品を手にしていくあいだ、ずっと私から目を離さないでいたのだ。防犯カメラのような無機質で固定化された視線で。私はレジの前に立ち、プラスチックカゴを男の目の前に置いた。それでも男は身動きせずに私のことをしばらく見つめていた。金属的な光を湛えた目で、そのまわりには木の皮のような皺が深く刻まれていた。やがて視線をプラスチックカゴに移し、男は商品のバーコードを一つ一つゆっくりスキャンしていった。
「一万円になります」スキャンを終えた男が言った。
「え」
「一万円になります」
ハンチング帽の男は揺るがない目で私を見ている。一万円もするはずがないという言葉を出す気はなかった。私は何も言わずズボンのポケットから一万円札を差し出す。そして男が一万円札を手に取ってしげしげと調べているあいだに、カウンターの上の商品をすべて手にして素早く店から出るつもりだった。なにしろそれは私の所有している交換不可能な一万円札なのだ。私は商品を自分のそばに引き寄せようとした。
しかし男は私を咎めることはしなかった。かわりに私に向かって深々と頭を下げた。
「お買い上げ、ありがとうございます」
コンビニから出ると、男が商品を入れてくれたビニール袋を手に下げて、私は再び国道沿いを進んだ。まだ波の音は聞こえないし、潮の香りもしない。しかしこの道の先には海があるはずだ。とにかく私はそのことを確かめたかった。
誰かが私に残した一万円札は、交換することができた。まだ交換条件に大きなずれがあるものの、とにかく交換の役割は果たすことができた。私は立ち止まった。そして思い出したようにビニール袋からペットボトルの水を取り出して飲み、貪るようにチョコレートをかじった。喉を潤し、腹を満たすことに私は無心になった。やがて朝日が姿をあらわし、祝福するかのように私の食事姿を眩しく照らしだした。
海はまだか。そこから始まる。次は家に帰る方法を考えなければいけない。
(2021年作)
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