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タイムマシン

 犬塚博士に呼びだされたのは今から十年ほど前、ちょうど昭和天皇が亡くなった年の終戦記念日だった。大学のキャンパスには夏休みでどこにも人影がなく、あちこちで道路工事をしているみたいに蝉が激しく鳴いているだけだった。僕はシャツの下で汗をかき続けながら、キャンパスに隅の方で、ポツンと離れて建っている研究室に向かっていた。
 ドアを開けると、犬塚博士はソファに座って、羊羹を食べようとしているところだった。煙草の箱ぐらいはあるかと思われる羊羹に串を突き刺し、そのまま丸ごと口の中に押し込んだ。そして山羊みたいにもぐもぐと顎を動かした。
「むうぐ、えらく、遅かったじゃないの、むぐ」、犬塚博士は僕に気付くとそう言った。「あなたも食べる?」
 部屋の中はエアコンがよく効いていて、かすかに線香の匂いが漂っていた。僕は体の力が抜けたように、犬塚博士の向かいに深く腰を下ろした。
「まだ約束の時間より三十分早いです。それよりそんな甘いものばっかり食べてたら体に悪いですよ。もう年なんだし」
「ははっ、むぐっ、体ねえ」、犬塚博士は指に挟んだ串を見ながら笑った。
 彼女と僕のあいだには、会話らしい会話が成立したためしがなかった。けれどもその責任が僕にあったとは自分では思えない。僕は別に突拍子もない話題を持ち出したり、突然話題を切り換えたり、変な喋り方をしたりするわけではなかった。むしろ人に進んで話しかけたりはしないタイプであった。話しかけられても何種類も用意した相槌をタイミングよく打つばかりだった。そんな人間が将来中学校の教室で日本史を教えることになるなんて、人生どこでどう繋がっているのかまるで分からない。
「乗ってみなさいよ」
 犬塚博士は日本茶で羊羹を一気に流し込んだ後、唐突にそう言った。
 会話が成立しない原因は彼女にあったと僕は今でも固く信じている。僕の思い出すかぎり、彼女の話はいつも順序がバラバラで、同じことを何度も言ったり、大事なポイントが欠落していたりして、内容がほとんど理解できなかった。声が大きく発音は不明瞭だった。僕が整理して聞き直しても、彼女はすぐに別の話題に移った。半分呆れて彼女の話を聞かないでいると、彼女は当然のように怒った。怒りたいのは僕の方だったけれど、もちろん怒ることはできなかった。彼女は僕のゼミの担当で、単位をもらうのが大学内で一番難しい先生だった。
「あら、怖いの?」、僕が黙っていると犬塚博士はそう訊ねた。
「怖い? 別に恐くはないですよ」と僕は答えた。「何に乗るかも分からないのになぜ怖がるんですか。ジェットコースターかなにかに乗るんですか? それなら平気ですけど」
「ははっ、ジェットコースターですって。はは」
 犬塚博士は短く笑うと、ゆっくりと立ち上がった。そして窓の方に歩いていった。彼女はもう五十を超えていたが、外見的にはとてもそんな年齢には見えなかった。黒い髪が腰のあたりまでまっすぐ伸び、体操選手みたいに痩せていて、目鼻立ちははっきりとしていた。街の真ん中を歩いていたら、現役を退いた後も肉体管理を怠っていないファッションモデルにでも見えるかもしれない。
「私があなたをわざわざ呼びつけるってことはタイムマシンのことに決まってるじゃない」
 犬塚博士は窓の外に指を向けながらそう言った。タイムマシン?
 なぜタイムマシンのことで僕を呼びつけるのが決まっていることなのか、僕にはまったく理解できなかった。というか、なぜそんなことで暑苦しい真夏の日にわざわざ呼びつけられなければいけないのか、僕は少し腹が立った。だけどそんなことを言っても彼女には無意味だということは十分分かっていた。彼女の頭の中には恐らくタイムマシンのことでいっぱいなのだ。
「あれよ」
 彼女が指さした場所には、真っ赤なハーレー・ダビッドソンが一台停まっていた。まるでトマトを何百個も投げつけられたんじゃないと思えるぐらいの赤だった。そんな真っ赤なハーレー・ダビッドソンを僕はそれまで見たことはなかった。たぶん僕だけでなく世界中の誰も目にしたことはないだろう。
「ただのハーレー・ダビッドソンですね。色はかなり変わってますけど」
「ばかね。どこからどう見てもタイムマシンよ。私が発明したタイムマシン」
「限りなくハーレー・ダビッドソンに近いタイムマシン」と僕は言った。「不良少年が間違って乗っていっても知りませんよ」
「やっぱり怖いのね」と犬塚博士は言った。
「怖くはないですよ」と僕は言った。
「気持ちは分かる。だから私が乗るわ」
 犬塚博士はそう言うと、細い体を回転させ、そそくさと部屋を出ていってしまった。
 僕はため息をつき、ふたたびソファに腰を下ろした。そして頭の後ろで両手を組み、目を閉じていた。しばらくすると、地の底から湧き上がるような重いエンジン音が鳴り響いた。本棚が崩れてきそうなほど大きな音だった。やがてその音が遠ざかり、まったく聞こえなくなるまでのあいだ、僕はソファの上でずっと目を閉じていた。

 それから犬塚博士は消えてしまった。
 ゼミの教室にも、大学のキャンパスにもまったく姿を現さなかった。知り合いにも聞いてみても全然見かけていないということだった。大学も困惑しているらしく、ぽっかり空いてしまった講義の担当を充てるのにひと苦労したみたいだった。僕のゼミの担当は、若い男の教授が代行を勤めた。まだ新人らしく、単位は居眠りをしていても簡単に取れた。
 今から思えば、その当時僕は犬塚博士に対してやはり何かしらの好意を持っていたんだと思う。たしかに彼女は独断と偏見に満ちていたし、わがままだったし、まともな会話は成立しなかったし、僕より三十も歳上だった。でも基本的に彼女はいつも僕に対して好意を持って接してくれていたんだと、僕は今そう感じる。それに彼女の存在はいつも僕を魅了し、圧倒していた。だからこそ僕はあの八月、激しく照りつける太陽の下、大量の汗をかきながら彼女に会いにいったのだ。
 犬塚博士のいない大学は、僕にとって干涸びたプールのようなものでしかなかった。朝から晩まで欠伸をし続け、くだらない講義を聞き続けるだけだった。

 それから十年後、僕は三十歳になり、恋をすることになる。それも教え子である十五歳の女の子に。
 その女の子は、黒い髪が腰のあたりまでまっすぐ伸び、体操選手みたいに痩せていて、目鼻立ちははっきりとしている。二人で話したことはまだないが、成績は学年で抜群に優秀だ。彼女の存在はいつも僕を魅了し、圧倒する。彼女の名前は犬塚京子。犬塚博士と同じ名前だ。
 帰宅する途中の電車の中で、僕は犬塚博士が言っていたタイムマシンのことを思い出す。そして何の前触れもなく突然失われてしまうもののことを考え、それでも時を超えていくもののことを考える。

(2003年作)

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