いずれ嫌いになる(第16回最終)
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ワタルは大阪にギターを持って帰ってきていた。返そうと思っていたのだ。そもそもはじめからこれは自分のものじゃない。父親が奪い取ってきたものだ。だがミドリカワ楽器店の店長が入院していることを聞いて、返しそびれてしまった。
久しぶりに耳にする大阪弁は以前よりも違和感が増していた。交差点や駅のホームで立っていると、どこか遠くの異国の地まで来てしまったような気がした。ただ通り過ぎるだけの、自分とは何の接点もない場所のようだった。
店長と別れた後、彼はボウリング場に足を運んだ。トウコに会えるなら会いたかった。未練があったわけではない。また付き合うようになってもいずれ嫌いになるだろう。それよりももう一度、彼女と二人であの暗く冷たいレーンに座ってみたかった。そこで自分の中にある何かを確かめられるかもしれない。
だがボウリング場はすでに取り壊されていた。何もない更地を鉄網が取り囲み、マンションのイラストが描かれた看板が立てられていた。ワタルはしばらくそのまわりを歩いた。そこがかつてボウリング場であったことを思わせるものは何も残っていなかった。
もう帰ろう、ワタルは思った。ここにはもう自分と繋がっているものは何もない。そしてこれからも何もないところから何もないところへ渡り歩くしかない。
平日の夕方ということもあって、公園の人通りは少なかった。ワタルはベンチに腰を下ろした。そしてケースからギターを取り出し、昔みたいに弾いてみることにした。結局誰にも返すことができなかったギター。もしかしたら今なら弾けるかもしれない。昔ミドリカワ楽器店の店長が弾いていたように『アルハンブラの思い出』をきちんと弾けるかもしれない。
脚を組み、ボディの窪みを添わせ、背中を曲げて、ゆっくりと弦を爪弾き始める。すでに太陽は傾いていて、風が涼しくなり始めていた。大型犬を散歩させている女がしばらく立ち止まって、ワタルの方を見ていた。そして嬉しいことがあったように微笑んでから立ち去っていった。そんな女がいたことなどワタルは気づいていなかった。ギターの音色に深く耳を澄ませること以外は暑さも涼しさも感じていなかった。彼の耳と指先は別々に機能していて、彼はその二つの場所に同時に存在していた。指先は何ものにも捕らわれていない自由な流れを紡ぎ出そうとし、耳は何百もの響きを掬いとろうとする。やがて深く澄んだ闇の片鱗を見つける。そこに近づき、その奥深くに身を投じようとする。それこそが自分の居場所なんだと確かめようとする。
「それ、誰のギターや」
その掠れた声に、ワタルはすぐに気づかずに演奏を続けていた。
「誰のギターやって訊いとんねん」
苛立ちの混じった声がワタルに近づいてきた。大きくなった声よりもまず湿った汗の臭いが鼻をついた。ワタルは顔をあげた。目の前に立つ男はニットキャップを被っていた。猫にいじられたように毛がほつれたニットキャップだ。目は落ちくぼみ、頬は痩せこけて、無精髭が生えていた。ピンクの薄汚れたTシャツに半ズボンを穿き、素足のまま重たそうなスニーカーを履いていた。またがった自転車のかごにはビニール製のスポーツバッグが入れられている。相手がミドリカワ楽器店の息子だということをワタルはすぐに認識した。
「俺も昔はそんなふうによう弾いとったわ」ユウジは座りたそうにワタルの横に目をやった。しかしワタルは追い払うようにユウジを強く見返した。
ユウジは自転車から降り、スタンドを立てると、にたっと口を横に広げた。「何年ぶりや。こんなとこで会うとはな。十年以上になるな。ちょうどここでおまえの父親にぼこぼこにされたんや」
ワタルは何も聞きたくなかった。体からギターを離し、ソフトケースに丁寧にしまい始めた。
「もう弾けへんのか?」
「よく僕のこと憶えてましたね」ワタルはユウジの後ろの茂みを見ながら言った。
「そら当り前やないか」ユウジは親しげな声を出す。「そら憶えてるよ」
「これ、やっと返せます」ワタルはケースにしまったギターを差し出した。「ほんとはもっと昔に返すべきだったんでしょうけど。ほんとはあのとき返すべきでした。借りが長すぎましたね」
「何言ってんねん」ユウジは差し出されたギターをじっと見る。「返さんでええってあのとき言うたやろ。それはあんたのもんや」
「いや返します。もうこれで終わりにしたいから」
ユウジはじっとワタルの顔を見ていた。自分と目を合わそうとしないワタルのことを見ていた。「もうな、そんなもん俺にはいらんねん。それに代わるもんを見つけたからな」ユウジは振り返って、自転車のかごに入っているバッグを顎でさした。「ていうか元々俺のもんやってんけどな。でもちょっとしたことがあって、ずっとなくしてもうてたんや。それが最近になってやっと俺の手元に帰ってきてん」
「帰ってきた?」
「そうや。俺の子供みたいなもんや」
そう言われれば、ちょうど生まれたばかりの子供ぐらいの大きさだとワタルは思った。背中を丸めて、身を固めているような格好だ。
「おまえ、妹ができたやろ」
「え」
「知ってるぞ。よう知ってる。生まれたばっかりやろ」
「何が」ワタルは語気を強めた。
自転車のかごの中に何が入っているか、ワタルはふと気になった。
「妹の顔、見たんか?」ユウジが訊ねる。
「おまえ、いったい何や」ワタルはポケットに手を入れた。
妹はずっと泣きじゃくっていた。母親がいくらミルクを飲ませても乳首をくわえさせても、もっと他の何かを求めるように泣き続けていた。父親はテレビを見ているだけだった。ワタルはうんざりした。またこの家で、この土地で、人が一人育たなければいけないことに。
「何でそんなこと、おまえが知ってんねん」
ワタルはベンチから立ち上がった。ポケットの中の音叉を握りしめる。だがユウジは一歩も動じることはなかった。
「あれは誰の子や」ユウジは微笑みを消した。
「何が」
「あの父親が今さら子供をつくると思うか?」
ワタルは昔と同じようにユウジの目頭にたまった目脂を見ていた。言葉を話しているのはやはりその目脂のような気がした。
「ほんまにあの男が父親やと思うか?」
「もし違うかったらすぐにわかることやろ。あの親父やったら暴れまくってる」
「いや違うよ」ユウジは首を横に振った。「しょっちゅうセックスはしてるよ、あの夫婦は。だからあの男も半信半疑なんや。ちゃんと避妊だけはしてたはずやのにな」
「おまえ、いったい何を言ってるんや」
ワタルは一歩近づいたが、ユウジはやはり後退しなかった。二人のあいだには人ひとりぶんのスペースしか残っていない。まわりを通り過ぎる歩行者たちは不思議そうな目で彼ら二人を眺めていた。
「俺はな」ユウジは呟く。「俺は、おまえの母親が好きやってんや。あの女に恋をしてたんや。いつのまにかごっつ好きになってた。そら一度はミスを犯したけどな。でもそんなん大したことない。俺はずっとあの女と一緒になることしか考えてけえへんかった。あれは俺の子やで。母親に訊いてみ」
相手が何を言っているのか、相手の言葉が何を意味しているのか、ワタルはしばらく理解できなかった。ただ相手から目を離さずにいることしかできなかった。相手の顔をじっと見つめていると、それは次第に人間の顔には見えなくなってきた。一本に繋がりかけている眉毛は使い古された縄だった。目や口や鼻はろくろでの製陶過程で失敗した歪みや穴だった。それはユウジ自身が人生で犯した失敗の物的証拠のようでもあった。ワタルは自転車のかごに入っているビニールバッグにまた目をやった。あの青年に頼まれた荷物のことを思い出した。やっぱりそれはそこにある。どこまで逃げたとしても、きっとどこまでも追いかけてくる。
「そうなると」ユウジは臭い息を吐いた。「俺とおまえの関係ってどうなるんやろな」
「そんなもん知るか、童貞蛆虫。それ以上言うと殺すぞ」
ワタルはポケットから握りしめた拳を取り出した。生温い汗にまみれた音叉が街灯に反射する。
「へえ、それで殴るんか。やっぱりおまえはろくでもない大人になったな」
ワタルは右肘を少し後ろに引いてから思いきりユウジの腹を殴った。ユウジは短い呻き声を吐くと、そのまま地面にうずくまった。相手の後頭部を見下ろしていると、ワタルはそこに目がけてもう一度音叉を振り下ろしたくなった。
ユウジは笑っていた。うずくまりながらじっと痛みに耐えていたかと思うと、我慢できない笑いを漏らすように声を立て始めた。そして自分を笑わせている張本人をぎょろっと見上げた。
「俺の思ってたとおりやわ。今のおまえは何もかもが嫌いやろ。やっぱり嫌いになったやろ。そんな人間やねん、おまえっていう奴は。でも俺は違うぞ。俺はあの女が好きやし、子供もつくった」
ユウジはいつまでも糸を引くような笑みを浮かべていた。ワタルは自分の足元に絡みついている動物を見ていた。自分はどこにもいないような気がした。結局自分の住み着くところはこういう場所なのかもしれない。いくらユウジの顔面を殴っても、ギターでユウジの脳天を叩き割っても、すべては無意味のような気がした。誰もが自分に絡みついてくるものから逃げることはできないのだ。
それではあの瞬間は何だったのだろう。あの瞬間は嫌いではなかった。あの暗くひんやりとした空間でギターを弾き、トウコの体を抱いていた瞬間。それはブルドーザーによって更地にされて失われていることを思うと、ワタルは胸が苦しくなった。そして自分でも気づかないうち彼は涙を流していた。
「今さら泣くな」
ユウジが呟く。そして腹を押さえながらゆっくり立ち上がる。ユウジの言葉に何の反応も示さないワタル。ただうつむいて目元を手で隠している。そのがら空きになった腹に今度はユウジが拳を打ちこんだ。ワタルは声も出さずにそのまま地面にうずくまる。
「俺のこと殺すんとちゃうんか」
しばらくワタルのことを見下ろすと、ユウジは自転車に戻って、バッグのファスナーを開けた。そして黒々とした球体を三本の指で取り出した。ユウジはボウリングの玉でワタルの頭を西瓜みたいに割ってやるつもりだった。それでやっと自分を見下してきた者たちへの復讐を完全に遂げられる。
その背後でワタルは物音一つ立てずに、ソフトケースに入ったギターのネックを掴んでいた。こんな雑巾みたいな男を殺しても仕方がない。それは充分わかっている。しかしもう殺さずにはいられない。ギターがぼろぼろに崩れるまで殴れば、ユウジの頭もぼろぼろに砕け散っているに違いない。俺はこのおっさんが嫌いや。このおっさんを産み出す世界が嫌いや。そんなことははじめからわかってる。せやのになんで涙が止まらないんやろう。
ワタルは流れ落ちる涙を拭うことなく、ユウジの頭にむかってギターを振り下ろし続けた。ケースの中で弦が切れ、ボディが割れて、やがて鈍い反響音が鳴らなくなっても、彼は決してギターを振り下ろすのをやめようとしなかった。やめるのには彼の抱える憎しみは大きすぎた。ボウリングの玉はすでにユウジの手から離れていた。そしてそれはまた別の夕闇へと転がり去ろうとしていた。
〈了〉
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