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銀魚

 日曜の午後、浅宮池で釣りをしていたら、電気屋のヒデトラさんから「今晩打たねぇか」と携帯電話にかかってきたので、「ハイハイいいっすよ」と即オーケーした。
 ヒデトラさんとは良き麻雀仲間である。僕達はだいたい月二回ペースで雀荘に集まる。
「最近はいろんな遊びが増えたせいで、麻雀を打てる連中はめっきり減ったよ」
 といかにも通ぶるヒデトラさんの麻雀歴はまだ一年も経っていない。小学三年の頃におぼえた僕にしてみれば、定期的な小遣いまでくれる実に良き麻雀仲間である。それでもヒデトラさんは負けず嫌いの性分なのか、それとも還暦にしてはまれるものを発見できたのか、毎月師匠である僕に挑み続ける。元々ヒデトラさんに麻雀を教えたのは僕なのだ。当然のごとく僕が勝ち続ける。奥さんの話によると、ヒデトラさんは仕事中も店の椅子に座り、眉間にしわを寄せながら麻雀の必勝本に耽っているらしい。
「なんか釣れたか?」とヒデトラさんが訊くので、「まだっすね」と答えると、「釣りはおれの方が上手や」と勝ち誇ったように笑った。悔しいので僕もわざとらしく高らかに笑い、そのまま電話を切ってやった。
 釣りに戻った。今夜も全力でヒデトラを打ちのめす、そう心に誓うのであった。

 日曜にはたいてい釣りをしている。
 朝十時からの『笑っていいとも増刊号』を見終わった後、ママチャリでアパートを出発し、途中チコマートでおにぎりやらお茶を買い、三十分ほどかけて浅宮公園まで行くのである。公園の中央にはちょうど山が二つ並んだような形をした浅宮池がある。池のまわりには朝早いおっちゃん達がてきとうな間隔をあけながら、すでに良いポイントを陣取っている。普段は何の仕事をしているのかよく分からないようなおっちゃん達だ。僕はおっちゃん達の背後を静かに通り過ぎ、片方の山の頂上まで進む。そこが一番奥まったほとんど人目に付かない場所だ。藪に囲まれていて、そばには誰もいない。僕はいつもそこで荷物を降ろし、竿のセッティングをする。そしてひたすらルアーを何十回も投げてはたぐり寄せている。日曜日の太陽が沈むまで、草の上でブラックバスを待っている。
 ただ一人でだらだら待ち続けるのである。
 釣りとは待つスポーツである。釣りほど体を動かさないスポーツはない。ましてやここは親子連れのアヒルが泳いでいる平和な浅宮池で、その下には小さなブラックバスが泳いでいるだけだ。ヘミングウェイの『老人と海』のようにはなかなかいかない。カジキもいなければ鮫もいない。
 このまえ同じアパートの住人で、ギャルであるタマミを一度釣りに誘ったが、
「退屈なのは嫌いだから」
 とあっさり断られた。
「退屈」というのはどうやら世の中の多くの人達から嫌われているらしいと薄々とは感じていた。しかしひそかに目を付けていたタマミにあっさりそう言われてしまうと、僕はやはり溜め息をつかずにはいられなかった。
 はあ、と思った。
 釣りは退屈なものである。弁解するつもりはない。そして、どうやら僕はそういう退屈な時間を好むようである。もちろん糸が引いた瞬間は(きたっ!)と一気に全意識を竿に集中させ、夢中になれる部分ではあるが、まあそれはそれとして、その瞬間に辿り着くまでにはたいてい膨大な時間が費やさなければならない。あるいはいくら時間を費やしても糸がぴくりとも動かない日だってある。そんな日は年老いた釣り人たちに囲まれた浅宮池の光景を延々と眺めているだけである。たぶんこの光景はずっと昔から変わっていないだろう、とさえ思える。まさに退屈を体中で満喫できる。僕はむしろそういう時間のために浅宮池まで来ているのだと思う。一匹も釣れなかった日もそれほど落ち込みはしない。日曜の朝から草っ原に座りこんで、だらだらと竿を池に傾けているのがきっと好きなのだと思う。まわりから見れば何かを考えているふうに見えるかもしれないが、実際は何も考えていない。ただ一日中竿をひたすらたぐり寄せているだけである。
 昼食の焼きタラコ入りおにぎりを食べているとき、『笑っていいとも』のテレホンショッキングというトークコーナーのことをふと思い出した。その日はゲストとして赤塚不二夫が出演していた。正午の時点ですでに泥酔状態であった不二夫は、
「人生は退屈。みんな暇つぶしに生きてんだよ」
 とピンク色の頬をして呟いていた。
 ろれつの回らない不二夫の言葉を間に受けてしまった僕は、そのあとカップ焼そば『U FO』ができあがるまでの三分間頭をひねってみた。みんな基本的には退屈なのだという不二夫の意見は何となく分かる気はするが、暇つぶしに生きているわりには最近みんな忙しすぎやしないかと思った。仕事したり、市役所にいったり、免許書の更新にいったり、海外旅行に行ったり、定期券や車を買い換えたり、結婚したり、いろいろすることが多すぎやしないだろうか。暇つぶしなら暇つぶしらしく、ちょうどいい感じのペースがあるはずである。正午ですでに酔っぱらっていても別に構いやしない。僕が感じるところでは「退屈」と同様、「忙しい」というのも多くの人達から嫌われているようだ。ならば忙しくもなく退屈でもない、ちょうどいい感じの時間を生きてみたいというのがベストかもしれない。僕もそんなふうに生きてみたいと思ったりする。というところで三分が経過し、UFOの湯を流しに捨てた。
 ところで僕は今、暇つぶしをしようと退屈な時間を過ごしている。果たしてこれはこれで暇つぶしになっているのだろうか、と特にそういったことを深く考えたりもせず、今日も釣り竿をたぐり寄せている。

 素晴らしく良い天気だった。空を見上げれば目が痛くなるほどだ。池の水面はガラスの破片を撒き散らしたみたいに細かく光っている。
 季節はすでに秋だった。
 あたりは秋的な静けさに包まれていた。小鳥の鳴き声が聞こえ、ウォーキングをしているおばちゃん達の笑い声が聞こえ、ときどき近くのグランドから金属バットの打球音が聞こえていた。草の上に置きっぱなしの携帯電話は、昼前にヒデトラさんからかかってきた以来一度も鳴らない。
 ふわああぁ、と思った。ペットボトルのお茶を一口飲んだ。まだ一匹も釣れていないのである。
 日が暮れるまでにはたっぷり時間がある。竿を片手に持ったまま寝転んでみた。太陽の光に暖められた草が気持ち良かった。草をかきわけて蟻などを探しみたが、どこにも見当たらなかった。タマミのことを思ってみた。今日もギャルであるタマミはTシャツにミニスカート姿で遊びにいった。一度自転車の空気入れを借りに僕の部屋のドアを叩いたが、どう考えてもタマミが僕を気にかけているようには思えなかった。ちょう空の上を赤い飛行船が通過しようとしていた。胴体の側面には大型電気店『ジョーシン』の名前が印刷されていた。ヒデトラさんの顔が浮かんだ。以前MDウォークマンの調子が悪くなったので、商店街のヒデトラさんの店へ見せにいったことがあった。ヒデトラさんは老眼鏡を上げ下げしながらそれを初めて見るかのように、長い間手の中でじぃっと見回していた。そして突然不機嫌になって、「男なら自分で直してみろ」と僕に突き返した。そのことを思い出したら、少し可笑しくなった。目を閉じてみた。眠ってしまいそうなぐらい長く目を閉じていた。目を開けた。平凡な風景は目を閉じる前ともちろん何一つ変わってはいなかった。携帯のディスプレイを見てみた。寝転んでから一分しか経過していなかった。
 例えば小説家ならこの状況をどうやって描写するのだろう、と思った。秋の日曜日に公園の池で一日中釣りをしているこの状況を、どのように文章化するのだろうか。想像もつかない。書くべきものは何もないように僕には思える。これといった変化もない風景だ。僕自身だって特に何かを考えているわけでもないし、何かに深く感興を抱いているわけでもない。ブラックバスだって一匹も釣れてはいない。釣りどころか、寝転んでまま眠ろうとさえしている。
 書くべきものが何もない。退屈とは、つまりそういったものだ。

 やけにあたたかな秋の午後のことだった。

 ……ぐうぅ……

 ちゃぽん

 ぴちゃ、ぴちゃと、なにか濡れた固いものが頬を打った。
 目を覚ますと、そこには自転車ぐらいの大きさの魚が立っていた。
「やっと起きてくれましたか」と魚は甲高い声で言った。
「?」
「? ではありません。早く家に帰りましょう」
「は?」僕はかすれた声を出した。
「さあ、早く」
 魚の顔はどこか微笑んでいるように見えた。
 僕は状況がうまく飲み込めないまま、ゆっくりと上半身を起こした。あたりはすでに薄暗くなっていた。夕日の光は斜めに傾き、白い街灯があちこちで光っていた。池のまわりを囲んでいたおっちゃん達の姿も見えない。どうやら僕は長い間眠っていたようだった。
「こんなところでいつまでも眠っていたら、風邪をひきますよ」
 魚は僕を見下ろしてそう言った。確かにそうである。こんなところで寝ていたら風邪をひく。
「起こしてくれてありがとう」とりあえず礼を言ってみた。
 魚は胴体を小さく横に振り「さあ、家に帰りましょう」と言った。そして片手を僕の前に差し出した。
「なんで」と僕は反射的に訊ねた。「一緒に帰るの?」
 魚は溜め息をついた。「あなたが釣り上げたからじゃないですか、私を。もうお忘れになったのですか?」
「僕が釣り上げた?」
 僕は手にしていたはずの釣り竿が消えていることに気付いた。たしか片手に釣り竿を握ったままのはずだった。けれどもいくらまわりを見回してみても。釣り竿はどこにも見つからなかった。
「あなたの竿はあそこですよ」魚はそう言って後ろの池を指さした。
 すでに池の水面は真っ暗だったが、よく目を凝らしてみると、岸から二十メートルほど離れたところに僕の釣り竿が浮かんでいた。
「針が刺さった痛みで私がつい暴れてしまい、竿が池に落ちてしまったんです。釣られたのは久しぶりだったもので、つい取り乱してしまいました。非常に反省しております」
 魚はそう言って胴体を下に傾けた。そのあいだにも沖に押し流されていく釣り竿を僕はしばらく眺めた。
「まあ、仕方ないさ」それ以外言葉が見つからなかった。
 仕方がないので帰る用意を始めた。ゴミをポリ袋にまとめ、出しっぱなしにしていた釣り用具を箱になおした。ペットボトルのお茶はまだ底の方に残っていた。
「歩いて来られたのですか?」と魚が訊ねた。
「自転車」と僕は答えた。
「では申し訳ないのですが、私をうしろの荷台に乗せてもらえないでしょうか」と魚は声の調子を弱めて言った。「本来ならば私が運転するのが筋なのでしょうが、なんと言っても私、生まれついて運動神経がゼロでありまして、自転車もろくに乗れないんです。稚魚の頃から泳ぐ以外のことをしたことがないものでして」
「へえ、そうなんだ」と僕は言った。魚が泳ぐ以外のこともするのだとそのとき初めて知った。魚もいろいろ忙しいみたいである。
 魚は潤んだ目で僕を見つめていた。その信号機のような大きな目に見つめられるのは、正直いってあまり気持ちの良いものではなかったが、乗せるのは構わない、と承諾した。
「でもこのまま家には帰らないよ。ヒデトラさんと麻雀をする約束があるから」
「もちろん結構です」と魚は言った。「麻雀が終わるまで待っています。ただ私も魚でして、待ってるあいだ水を用意して頂ければ、あ、ありがたいのです、が」
 魚はそう言っているうちに、だんだん声の調子が荒くなっていった。そして胴体の部分が痙攣のようにぶるぶる震え始めた。その巨大な目は精気が失われるように虚ろになっていった。まるで何かの予兆のように魚の全身は小刻みに震えだした。その震えに耐え切れず膝から崩れ落ちそうになると、魚は池の方に振りかえり、草の上で四つんばいになった。そして口元を池の中に勢いよく突っ込んだ。どうやら水を勢いよく吸い取っているようだった。二つのえらから水が噴水みたいにピュウウゥと出てきたのである。僕は服が濡れないように横によけた。
 しばらくすると魚は水中から顔を上げた。草の上に座ったまま、安心したように大きく息を吐き出した。
「呼吸が大変そうだね」
 僕は魚にそう言葉をかけた。そしてペットボトルに残ったお茶を捨て、かわりに池の水をいっぱいになるまでその中に汲んだ。それを魚に渡した。
「それで足りなかったら途中のコンビニで買えばいい。まあ、雀荘までできるだけ飛ばしてみるけど」
「お気を使わせてすみません」
 魚は元気を取り戻したようだった。

 魚をうしろに乗せ、雀荘までママチャリを走らせた。大きな魚が目の前に立っていたのは確かにびっくりしたけれど、でもまあ悪い魚ではなさそうだし、僕に釣られたというなら僕が連れて帰ってもおかしくないだろうと思った。魚は横向きに座り、片手で僕の腰にしっかりとしがみついていた。そして夕焼けに向かって、ボブ・ディランの『くよくよするなよ』を口笛で吹いていた。魚の体重は見た目ほど重くはなかった。大きな発泡スチロールの塊を運んでいるように軽く、バランスを取るのに少々手間取るぐらいであった。
 国道の交差点で信号を待っていた。横のファミリーレストランの中で一人の女の子が僕達を眺めながら、楽しそうにガラスをばんばんと叩いていた。テーブルのお子様ランチをほったらかしにして、必死に何かを叫んでいるようであった。母親は僕達にむかって済まなさそうに頭を下げ、はしゃぐ女の子を落ち着かせようとしていた。しかし信号が変わり、僕達が横断歩道を渡ったあとでも、女の子は僕らにむかって嬉しそうに手を大きく振っていた。僕も女の子に向かって小さく手を振ってみた。
「私のことは、銀魚と呼んでください」
 魚は甲高い声でそう言った。うしろを振り向くと魚はペットボトルを口にしていた。
「本当は水銀魚なんですけれど、銀魚でいいんです」
「銀魚」と僕は繰り返した。
「ええ、そうです」
「立ち入った質問なんだけど、してもいいかな?」
「結構ですよ。何でも訊いてください」
「なんでそんなに大きいの?」
「そりゃあ水銀のせいですよ」銀魚は間を置かずに答えると、シャッと音を出した。どうやら笑い声のようであった。「浅宮池の水には水銀がいっぱい含まれていて、そのせいでこうなっちゃったんです」
「はあ、そうなんだ」
 僕が分かったような分からないような調子で答えると、銀魚は、シャッシャッシャッ、と大きく笑った。
「じゃあ水銀のせいで手とか脚も生えてきたの?」僕はさらに突っ込んで訊ねた。
「まさか」銀魚はそう言うとまた、シャッシャッシャッ、と笑った。「手足が生えるのは進化するのであって、水銀なんかで生物は進化しませんよ。奇形が生まれるだけです。私のこの手足は池の底に捨てられていたマネキンから拝借してくっつけただけですよ」
 そう言われてみれば、銀魚の手足はモデルのようにすらりとスマートに伸びていた。それはきっと女のマネキンだろうと僕は思った。銀魚の姿は、えらの少し後ろから細い腕が伸びていて、その下の腹ひれのところからは長い脚が伸びている。まるで裸の若い女が魚の着ぐるみを着ているようにも見えた。それに、てらてら光っている魚の胴体から女の手足が伸びている姿というのは、素っ裸の女よりも妙に生々しかった。
「マネキンなんか落ちてるんだ」と僕は言った。
「他にもいろいろありますよ」と銀魚は言った。えらから水が噴き出されるぴちゃっという音が聞こえた。「夜中になると、いろんな人間が池にやってきます。そしていろんな物が池に捨てられるんです。日常のゴミは毎日のように捨てられ、車のタイヤや電子レンジ、ビデオデッキやエレキギター、CDや百科事典、婚姻届まで捨てられます。池の底は物が山のように積もっています。ないものがないと言っていいぐらいです。十分贅沢な生活ができますよ」
 僕はそれを聞いて、池の底がどんなものか想像してみた。浅宮公園は古いわりには小奇麗な公園なので、それは意外な話であった。ふうむ、と唸った。外で寝ていたせいなのか一瞬寒気が走った。
「申し訳ないね」僕はなんとなく謝った。
 銀魚はうしろで、シャッシャッシャッ、と大きく笑った。あとは雀荘に着くまで『くよくよするなよ』をずっと口笛で吹いていた。

 雀荘のドアを開けると、すでにヒデトラさんは卓に着き、雀荘のママさんと談笑しているところだった。がらんとした店の中は二人以外誰もいなかった。
「いらっしゃい」ママさんは絨毯の上を歩いているようないつもの柔らかい声で言った。
「遅かったじゃねえか」ヒデトラさんはマルボロを吸っていた。
「携帯にかけてみたんだけどよ、出なかったぞ。カジキでも釣ってる最中だったか」そう言って短く笑った。
 僕は携帯電話の着信履歴を確認してみた。たしかに昼寝をしている最中にヒデトラさんから一回かかってきていた。
「たしかに大物は釣れましたよ」
 僕は自慢げにそう言い、銀魚を雀荘の中に招き入れた。銀魚は遠慮深そうに店の中に入り、僕の横で立ち止まった。そしてヒデトラさんとママさんに向かって胴体を下に傾けた。
「はじめまして。銀魚です」
 銀魚は店内に響き渡るぐらい甲高い声でそう挨拶した。
「あら。どうも、はじめまして」ママさんは落ち着いた様子で深々と頭を下げた。
「へへっ、た、たしかに大物だ」
 ヒデトラさんは少しびっくりしているようだった。「なんか余計なものがついてるみたいだけどな。蛇足じゃなくて魚足か」そう言うとヒデトラさんはまた短く笑った。
「お邪魔にならなければ、麻雀が終わるまで待たせて頂きたいのですが」と銀魚は言った。
「別に邪魔になんかなりゃしねえよ。好きにすればいいや。でもまあ時間はかかるかもしんねえけどな」ヒデトラさんはマルボロをぐいっともみ消した。「どうぞどうぞ」とママさんも言った。「いいから早く打とうぜ」
 僕は釣り道具を店の隅に置き、卓に着いた。時計を見るとすでに七時を過ぎていた。
「マサルさんはまだなんすか?」と僕はヒデトラさんに訊ねた。マサルさんとはヒデトラさんの三十歳になる息子で、いつもの麻雀仲間でもある。
「あのやろうは今日仕事だ」とヒデトラさんは言った。
「へえ、日曜日なのに」と僕は言った。
「他の連中にも声かけてみたんだけどよ、みんな結婚式や葬式やらで忙しいらしいわ」
 三人打ちなら勝ちは完全に僕のものであった。
 晩御飯の店屋物を取るので、ママさんが注文を訊いた。ヒデトラさんは天ぷらそば、僕は焼きうどんを頼んだ。
「おい、おまえさんは何するよ」ヒデトラさんが銀魚に向かって訊ねた。
 僕は銀魚の方を振りかえった。銀魚は隣の卓の椅子に座り、『考える人』のようなポーズをとっていた。床を一心に見つめ、なにか深刻そうにしていた。よく見ると、銀魚の全身はさっきと同じように小刻みに震えていた。空っぽになったペットボトルは床に落ちていた。銀魚の体が震えると、椅子が震え、麻雀卓がカタカタ揺れた。
「わ、私は、何も、い、いらない、です。そのかわり……」
 小さな声を震わせながらそこまで言うと、銀魚は力尽きるように床にべたんと倒れ落ちた。
「ママさん、水!」僕は叫んだ。
 異変を察したママさんは機敏にキッチンまで行って蛇口をひねり、コップに水を注いだ。そして小走りでそれを僕のところに持ってきた。銀魚は大きな目を見開いたまま、かすかな呻き声を上げていた。僕は水を銀魚の口に流しこんだ。えらから水がピュウウゥと噴き出た。蛍光灯の下で見ると、床にこぼれ出た水は少し紺色に濁っているのが分かった。
「ふうっ」何口か飲むと銀魚はまた元気を取り戻した。「こんなにおいしい水を飲んだのは初めてですよ」
「こう見えても魚なんです。水がないとやっぱり駄目みたいなんすよ」と僕はママさんに言った。
「それはたいへんね」
 ママさんはそう言うとキッチンに行った。今度は空の一升瓶に水道水を注ぎ始めた。銀魚はゆっくりと立ち上がり、安心したようにふたたび椅子に座った。
 事態を黙って眺めていたヒデトラさんが銀魚の前まで向かってきて、口を開いた。
「麻雀は打てるか?」
 銀魚は不意を突かれたような表情をした。私ですか? というように自分に向かって指をさした。ヒデトラさんは頷いた。
「ええ、できると思います」と銀魚は答えた。「実際に打ったことはないんですけど、池の底には麻雀牌も入門書もありまして、暇つぶしに一人で練習していました。池の底っていうのは本当に退屈で、珍しいものが落ちていると、それで時間を過ごすんです」
「なら話が早い。一人足りねえんだ。打とうぜ」
「喜んで」と銀魚は言った。シャッ、と笑った。「ちなみにこの前は太平洋戦争の資料が捨てられていて、東京裁判で極刑になった戦犯の名前を全員覚えてみました」
 僕達は卓に着いた。ママさんがキッチンから戻ってきて、水をめい一杯入れた一升瓶を銀魚に手渡した。
「なくなったらまた入れますね」とママさんは微笑んだ。
「どうもありがとうございます」と銀魚は胴体を傾けた。そしてトロンボーンでも吹くように一升瓶を持ち上げ、美味しそうにさっそく何口か飲んだ。 
 ママさんが晩御飯を電話で注文をしているあいだ、僕はキッチンのカウンターに置かれた小さなテレビを見ていた。NHKのニュースだった。任天堂のテレビゲーム機『ロクヨン』のやりすぎで子供が指をすりむいてしまい、任天堂がそのための対策を施したということだった。それはいったいどんな対策だったんだろうと気にしたところで、ママさんが席に戻ってきた。
 その秋の夜、そんなふうにしてヒデトラさんとママさんと銀魚、そして僕は麻雀を打ち始めた。よくある話でもないが、大した話でもない。

 ゲームは銀魚の親から始まった。銀魚は最初からかなり高い役であがり続け、親の地位を三十分ほど譲り渡さなかった。すでに序盤で銀魚と他の三人の点数に大きな差ができ始めていた。卓上を動き回るツキの流れが銀魚の方に向かいつつあるのを目に見えるように感じられた。危機感を持ちはじめた僕は「白のみ」という安い役で銀魚の連勝をなんとか食い止めた。
「ほんとに一回もやったことないの?」僕はそう訊ねて、二萬を捨てた。そして焼きうどんを一口食べた。
「ええ一回もないです」銀魚はそう言い、僕の二萬をチーした。「だけども楽しいもんですね。みんなでこうやって卓を囲んで打つのは。本の中にはない楽しさです」
 銀魚は前を向いて椅子に座ると牌の山が崩れるということで、横を向きながら片手で牌を入れ替えしていた。片方だけが動いている銀魚の大きな目はどこを見ているの分からず、やっぱり気味悪いものだった。そんな体勢でちゃんと見えているのかと思った。だけど勝ちを重ねているのでちゃんと見えているようであった。
 銀魚はもう片方の手で頻繁に一升瓶を口にした。そのたびにえらから紺色になった水がこぼれ落ち、床をびしょびしょに濡らした。
「どうもすみません」と銀魚は謝った。
「仕方ありませんよ」とママさんは微笑んで言い、中を捨てた。銀魚はそれをポンした。
 ヒデトラさんは思い通りにいっていなようだった。自分の順番がきても「ふうむ」と唸るだけで、なかなか牌を捨てなかった。それはヒデトラさんのいつもの作戦であった。他の人の調子が上がってきたら、わざとテンポを遅らせ、流れを崩そうとする試みである。巌流島における宮本武蔵だ。ヒデトラさんは吉川英治の『宮本武蔵』の愛読者でもあり、武蔵のとった戦法をたびたび麻雀に用いることがあった。けれどもそんな作戦が勝利に結びついたためしは一度もなかった。
 ヒデトラさんは天ぷらそばの汁をずいっと吸いながら、自分の牌を睨んでいた。そしてやっと納得したのか、イーピンをゆっくりと卓の上に捨てた。
「申し訳ありません。ロンです」
 あっさり銀魚がヒデトラさんの捨て牌であがった。チャンタ、三色同順、ドラ3の満貫8000点であった。
「いやあ、やばそうだとは思ったんだけどなあ」とヒデトラさんはやっぱり納得いかない様子で首をかしげた。ママさんがぱちぱちと拍手をした。
「手強いね」と僕は言った。
「いえいえ」と銀魚は言った。シャッと笑った。
 銀魚の登場は僕にとって脅威的なものであった。本だけで覚えたとは思えないほど、銀魚はそのあとも早いテンポで勝ち続けた。大型新人登場、といったところである。ビギナーズラック以上のものを感じるその勢いは、その夜ももちろん勝つつもりでいた僕を脅かした。
 ヒデトラさんはなんとか巻き返そうと奮闘していたようだった。けれども十時ぐらいになると「今日は駄目だな」とあきらめ、焼酎を注文しだした。それからは勝負よりも酒と喋ることに夢中になった。銀魚から池の話やら魚の話を聞いては大声で笑っていた。銀魚の方ももともと喋るのが好きなのか、ヒデトラさんのことをいろいろ聞き出していた。どうやらヒデトラさんと銀魚はうまが合ったみたいで、二人は何の話題になっても盛り上がっていた。しかし銀魚はヒデトラさんと楽しそうにしながらも、麻雀にはちゃんと集中しているようで平均的にその強さを発揮した。ずっと逆転のチャンスを狙っていた僕もすきのない銀魚の強さにあきらめざるを得なくなり、途中から水割りを注文するようになった。ママさんはヒデトラさんと銀魚の話にひたすら笑っており、ときどき一升瓶に水を入れにいった。
 麻雀を打っているあいだ、銀魚は絶え間なく水を飲み続け、えらから噴き出し続けた。十一時ぐらいになると、雀荘の床ぜんたいは足首が埋まるほど紺色の水に浸されていた。水だけではなく、ビニール袋や割れた食器や細かいごみなどもえらから出てきて、店の中を流れていた。ヒデトラさんと僕は濡れないように椅子の上にあぐらをかき、ママさんは正座をしていた。僕達四人はまるで沈没しようとしている船の中でいつまでも語り合っているようだった。
 麻雀は十二時ぐらいで終了した。結局トップは最初から最後まで銀魚だった。二位の僕は五百円勝っただけだった。しかしそれはそうと他の客は誰一人としてやってこなかった。
「さあて、飲み直すか」
 酔っぱらって上機嫌になったヒデトラさんは僕の肩をぽんと叩いた。
「ぼ、僕んちすか」
 ほどよく酔いが回ってきた僕はすでに眠くなっていた。
「あたりめえじゃねえか。銀ちゃんと家帰んだろ。おれも参加させろや」
そのときにはヒデトラさんと銀魚はすっかり意気投合していた。銀魚は一升瓶を片手にヒデトラさんと腕を組んでいる。
「な、ママさんも」
 ヒデトラさんが振り返ってそう言った。ママさんは微笑んで頷いた。
「よし、決まりだ」
 僕達は店の中をじゃぼじゃぼと進み、外に出た。空気がひんやりとしていたのは分かったけれど、酔っ払っているせいかそれほど寒さは感じなかった。夜空は雲一つなく、できたての五円玉のように月が輝いていた。ママさんが店の電気を消して、ドアの鍵を閉めた。僕はママチャリに銀魚を乗せ、ヒデトラさんはママさんを乗せた。僕らは四人でアパートへ向かった。

 六畳のワンルームである僕の部屋に入ると、ヒデトラさんは途中のコンビニで買ったビールやつまみをテーブルの上にひろげた。麻雀で勝った銀魚のおごりだった。それでちゃらということである。
「相変わらず何もねえ部屋だな」とヒデトラさんは部屋を見回した。
「何もないのがいいんすよ」と僕は言った。
 ヒデトラさんはみんなに一本ずつビールを持たせ、とりあえず乾杯をした。雀荘にいたときと同じように僕達四人はテーブルを囲み、宴会のようなものを始めた。多く喋っているのはやはりヒデトラさんと銀魚で、僕は合間に茶々を入れ、ママさんは足を崩して二人の話に聞き入っていた。
 銀魚は実に多くのことを知っていた。ヒデトラさんが繰り出す古い時代の話にもちゃんとついていき、それをさらに次の話題へとつなげていった。終戦直後の経営者たちが復興のためにいかに創意工夫を成してきたかとか、日活のポルノ女優の変遷とか、黒澤明の映画のこととか、あるいはセックスの体位における四十八手の全ての名称まで銀魚は知り尽くしていた。
「私達にしてみれば、池の底ではぜんぶ同じなんです」と銀魚はあぐらをかいて言った。「本当にいろんなものが落ちていますが、池の底で泥をかぶってしまえば、みんな同じに見えちゃうんです。電動こけしの説明書から源氏物語までみんな同じです。みんな同じ泥になっていくだけです。私はそれらを何の区別もなく毎日漁っているだけなんですよ」
 銀魚はそう言って、一升瓶をぐいっと飲んだ。銀魚のまわりの畳はすでに濃く湿っていた。
「泥んこプロレスやりてぇ」僕は寝転がってそう叫んだ。そしてカシューナッツの続きを食べた。すでに酔っぱらっていた。
「へへっ、おまえは泥と一緒だ」飲み干したビールの缶を潰すと、ヒデトラさんもママさんの膝を枕にして寝転がった。
 ママさんはヒデトラさんの額をぴたんと叩いて、ははっと笑った。そして眠たそうにそのまま体をテーブルの上に倒した。
 時計の針は一時二十分を過ぎていた。アパートの小さな部屋で僕ら三人はまさに浅宮池の底の泥みたいに眠ろうとしていた。
 消防車のサイレンが聞こえた。
 最初は遠くの方から聞こえてきたのだが、だんだんこっちに近づいてきたのである。
 僕は薄目を開けた。銀魚が水を噴き出しながら、立ち上がろうとしていた。そういえば銀魚の体が夕方よりも小さくなっているように思えた。銀魚はベランダの戸を全開にして、外の様子を眺めていた。僕は月の光を正面から受けている銀魚の後ろ姿を眺めていた。何故だかそれはとても勇敢な立ち姿のように見えた。『老人と海』に出てくる老人の夢だった。静かな砂浜に立ち尽くす一匹のライオンだった。老人がライオンの夢を見たように、僕は銀魚の夢を見ているのだろうか。寝ぼけた頭でそんな風に思ってみた。
「みなさん、火事です! 唄いましょう!」
 消防車のサイレンよりも大きな声に、僕ら三人は飛び上がった。
「か、火事!」ヒデトラさんは立ち上がって、ベランダに身をのりだした。
 僕も外の様子を見にベランダへ行った。燃えているのはすぐ近くの民家であった。炎は僕らの場所から確認できなかったが、白い煙が霧のように民家の周囲を取り巻いていた。ときどき火の粉が僕らの目の前まで飛んできた。
「ここも危ないかもしれないわよ」
 いつの間にかうしろで立っていたママさんが落ち着いた口調で言った。
「大丈夫ですよ。さあ、屋根にあがりましょう」と銀魚は意気揚々として言った。
 銀魚の体をはしご代わりにして、まずヒデトラさんとママさんがベランダから屋根にあがった。僕は唄うのならと、押入れからギターを取り出してから屋根にあがった。最後に銀魚が自力であがろうとするのを、僕らは引っ張りあげた。
 僕ら四人は屋根の上で腰を下ろし、しばらく火事を見物した。
 炎は意外にも早いうちに姿をあらわした。すべての窓から何本もの火柱が立ちのぼり、民家を飲み込むたびに火柱たちは大きな一つの火柱へと合体していった。蛍の大群のように、火の粉が民家の上を舞っていた。ときどき何かが弾けるような大きな音が聞こえた。その一帯は狭い路地が入り組んでいるため、消防士たちは遠くに停めた消防車からホースを引っぱってきていた。そのうしろで何人かの人々がその様子を見物していた。民家というよりは、すでに巨大な炎の塊になっていた。
「いい眺めだ」とヒデトラさんが言った。
「実に」と銀魚が言った。
 実に秋の夜にぴったりの見事な火事であった。
 ヒデトラさんの携帯電話が鳴った。その口調から相手はどうやらマサルさんらしかった。
「おう、分かってるよ。今火事見てんだ。それが終わったら帰るから」
 僕らは火事を眺めながら、歌を唄った。といってもたいてい唄っていたのは銀魚と僕だけだった。僕がギターで弾ける曲はほとんど昔のアメリカの唄であった。銀魚は歌もよく知っていて、僕が弾く曲はすべて唄えた。それによく通る声で唄もなかなか上手だった。ヒデトラさんとママさんは合いの手を入れたり、手拍子をしているだけだったが、途中で『上を向いて歩こう』や『君といつまでも』を弾くと、四人で唄った。
「ちょっと、あんた達何してんのよ」
 下を見ると、ギャルであるタマミが自分の部屋のベランダから僕達を見上げていた。ジャージ姿のすっぴんだったので一瞬誰だか分からなかった。
「おう」と僕は言った。
「おう、じゃないわよ。なに歌なんかうたってんのよ」
「あがってきなよ。いい火事だ」
「うるさくて寝れないのよ。明日朝からバイトなのに!」
 僕らはかまわず唄い続けた。
 タマミはしばらく僕を睨んでいたが、僕が実に楽しく唄っていると、諦めたように部屋の中に姿を消した。
 三十曲ほど唄い終えた頃になると、火事はやっとおさまった。真っ黒に焦げた柱だけが残り、細い煙がまだ幾筋か空中を漂っていた。消防士たちはホースを丸め、見物人はそれぞれの寝床へ戻っていった。
「みんな燃えやがった」とヒデトラさんが呟いた。
「よかったね。ここは燃えなくて」とママさんが言った。
「ほんとに」と僕は言った。
 銀魚はボブ・ディランの『くよくよするなよ』を口笛で吹いた。僕はそれに合わせてギターを弾いた。そして僕らは解散した。

 次の朝、テーブルの上には一升瓶があった。その中で一匹の魚が泳いでいた。めだかぐらいの小さな魚だった。その姿を眺めながら昨夜のことを思い出そうとしてみたが、頭の奥がひどく痛んでうまく思い出せなかった。畳の上には湿った跡と、マネキンの手足が四本転がっていた。
 僕は仕事へ行くまえに、一升瓶を持って浅宮池に寄った。そして池のほとりにしゃがみこみ、魚を池の中へと帰した。しばらくのあいだ魚は水面の近くを泳ぎ回っていたが、やっと何かを思い出したように底の方へと元気に泳いでいった。
 その姿が完全に見えなくなると、僕は月曜日の会社へ行った。

(2002年作)

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